ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』フランス、2004年 @ナビオTOHOプレックス

切り返しの倫理

確かに驚いた。「王国1 地獄」における、『映画史』を中心とした思弁的なコラージュ/モンタージュが纏まり、いよいよ「王国2 煉獄」に突入したとき、眩暈にもにた驚きを禁じ得なかった。手持ちキャメラと思しい小刻みに震える映像は、近年のフィックス中心の異動撮影にしても極めて滑らかであった最近の作品とは明らかに異質でありながら、それでもこれはゴダールによる映像であるという確信も同時に催させる。若者が作った映画というのとはまた違った若々しさで、まさにはじめて目にする光景に、純粋に驚きと歓びとをもって素直にキャメラを向けているように感じられる。この戸惑いと驚きとを孕んだ眩暈の正体はゴダール自身の口からこのフィルムの中で述べられるだろう。これこそが「切り返し」に違いない。
下馬評どおり、「物語」が見えやすい。ごく単純なレヴェルでの「感動的」な面もある。たしかにゴダールファンとしては驚きをもって迎えることが出来る。「新しいゴダール」が齢75にしてもなお観れることは素直に驚きであり歓びであり事件である。が、そのようなコノテーションに淫するのも良いが、このフィルムひとつだけでも驚きは相変わらずある。ゴダールの映画を観るたびに何かを発見した気になる。
フィルムの中ではユダヤムスリムイスラエルパレスチナとが切り返される。それを繋ぐ場としてのサラエヴォ。その場でまた様々な人物がつなぎ合わされる。本人役で登場するゴダールをはじめとする芸術家、作家たちと俳優が演ずるフィクションが融和する。地獄と天国とを煉獄であるサラエヴォが融和する。ドキュメンタリーとフィクションを融和する。ドキュメンタリーとフィクションを切り返すことがあるヴィジョンを私に見せる。路面電車や、濡れた道路を走る自動車や、弾痕の残る建物や、再建中の橋や、講堂や、小学校や、空港といったロケーションの中を真実というレヴェルからみれば、ドキュメンタリーとフィクションの違いというのは虚実の違いではないのだというかのように、人物たちはフィルムの上で結ばれる。
そしてこのフィルムは「王国3 天国」へと切り返される。煉獄を介して地獄と天国が切り返される。この地獄と煉獄を抜け、色鮮やかなゴダールの庭園に一時停止したフィルムは天国へと繋がれる。来世や天国といったユートピア的な虚構を素直に示されたことにやはり戸惑いながらも嬉しさを感じてしまう。まるでユートピアトいうよりは仮想現実のようなこの空間は、やはりだからこそ理想郷というべき安らぎに充ちている。生とは別の死。
これをゴダールからの珍しく出された贈り物だというのもどうかとは思うが、とりあえず今はそういうことにしておきたいと思う。