成瀬巳喜男『浮雲』日本、1955年 をDVDで

最初の4カットはドキュメンタリー映像である。終戦を迎え引き上げてくる人々の群れ。5カット目、そこには群集の中を進む、高峰秀子の姿。ここはフィクション。この最初の5カットが凄まじい。最後の高峰秀子を捉えたショットも、さらりと短く示されるだけで、すぐに暗転。次のカットはフェードインで入り、そこにはもう群衆はおらず東京のどこかを一人歩む彼女を遠景で捉えるのみ。最初の5カットが凄まじい。このフィルムがすさまじいことをさらりと数カットで端的に示してしまった。後はこのフィルムの呼吸に吸いこまれるのみ。(そういえばレオス・カラックスが最も好きな映画のひとつに挙げていたと思うが、『ポンヌフの恋人』の冒頭で浮浪者のドキュメンタリー映像から浮浪者役のドニ・ラヴァンへとカットが繋がれるのはこの『浮雲』の影響があると思ったが、幻想ではないと思う)
彼女の死もまた同様にフィルムに刻み込まれている。外は嵐。その嵐の映像に突如画質の落ちる、不安定な映像が混じる。ドキュメンタリー。鎧戸がバタンバタンと鳴る窓の外の嵐は、並大抵のものではない、生々しい嵐なのだ。その少しあいた窓を必死に閉めようとする彼女はそのままひどく咳込んで息絶える。訃報を聞いて飛んで帰ってきた森雅之の前に死して横たわっている、彼女の顔には白い布が被さることは決してない。最後までその死に顔をフィルムに焼き付けつづける。白い布は被せてはならなかったのだ。ドキュメンタリーの映像で始まるこのフィルムは死んでもなおこのフィルムに顔を焼き付けることを高峰秀子に要求したのだ。
中を抜いて、最初と最後について触れたが、その間の濃密さも途轍もない。まさにドン・ファンを地でいくといった感じの森雅之だが、女性と寄り添って歩きながら会話を交わす場面は、高峰秀子以外とは決してフィルムには見せない。この2人は終始歩きつづけていたといっても過言ではない。彼の横で歩く資格を与えられたのは高峰秀子だけであった。岡田茉莉子でさえ、最初ガラス戸越しに姿を見せたときから、ただの女ではないことは一目瞭然なのだが、一緒に歩く場面は遠くから専ら遠めのショットで、後姿も多い。これに限らず、2人が一緒に歩いているとき以外は、人が歩いているショットは決まって後姿か、遠景であり、2人が歩くときの構図と一緒の構図を取ることは決してない。そして、高峰秀子が病で歩けなくなったとき、物語は終末へと直行するだろう。
何故これを夏に劇場で観なかったのか。思えばこのような後悔は今回に限ったことではない。傑作はそれを観たとき、もちろん感動させるが、後悔の念も催させるものだ。むしろ観たことを後悔させるくらいでないと駄目だ。
私はこれから一体何度後悔するのだろう…。

浮雲 [DVD]

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