北野武『TAKESHIS'』日本、2005年 @MOVIX六甲

(11月7日記入)
なるほど物語としては確かに「難解」なのかもしれないが、イメージの連鎖としては非常に「分りやすい」といっても過言ではない。タイトルの通り、武のたけしによるTAKESHIのための映画、といった趣ではあるが、ナルシズムあるいは自己憐憫には決して陥ることなく、フィルムで示されている、2人の「北野」を見詰める、この『TAKESHIS'』という映画の「作者」である北野武がそれをきちんと食い止める。「北野武」に日本兵の格好をしたり、ヤクザ映画でいつものあのシンプルさでラストの銃撃戦をして一人生き残ったり、沖縄の民家で女と花札をやって撃ち殺したり、沖縄の砂浜でまさに『HANA-BI』を思わせるようなシーンからの怒涛の展開をなしているのはフィルムに映っているいかなる北野武でもなく、その第三の男なのである。
但し、この「監督、北野武」に決して「本当の」とか「真の」といった冠を付けてはいけない。フィルム上の武と同様、この第三の男も当然また一筋縄でいくわけではなくフィルム上の武たちにゲームをさせるのと同様に、我々にゲームをしかけてくる。パロディでも自己模倣でもない、自らの過去の作品のイメージの引用とそのズレ、まさにリミックスと呼ぶに相応しいイメージは、もはや久石譲のものではない、ビートによって加速するだろう。
単純な連想から生まれるイメージの連鎖、たとえばDJのターンテーブルから女性の胸への連鎖などは正直言って凡庸で、そういった意味での凄さはあまり感じなかったし、タップや音楽のシーンでのキャメラワークは『座頭市』に引き続きあまり感心できるものではない。そういった意味での運動を捉えるのは不得手なのではないだろうか。照明のまぶしさから、太陽のまぶしさへ連鎖しそれで目が覚める北野などというモンタージュもいまいちである。
そういう運動よりもある空間を捉えるとき、その時間を捉えるとき、フィルムには時空そのものが定着してしまったかのように思える。
だから、やはり一番興奮したのは、あの沖縄の砂浜のシーンである。どう見ても『HANA-BI』からの引用である(武の衣装まで変わっている!)、砂浜のはずれで石に腰掛ける武と京野ことみ、左手から3人が現れることや、サッカーボールが転がってくることはまずまず。そのボールを使って京野ことみがダンスする(吹き替えだろうが)シーンは普通に素晴らしい。だが、次の瞬間だ右にキャメラがパンすると、そこには機動隊。ナンセンスなアンゲロプロスといったら言い過ぎかもしれないが、ここの飛躍はすごい。この繋がりは決して「連想」ではない。これこそこのフィルムで唯一の本物のモンタージュがなされた瞬間かもしれない。だからその後の過剰で乱痴気な大銃撃が当然素晴らしい。そこで流れる音楽はもはや久石譲ではなく、正確なビートだ。この加速感が凄まじい。
これは武による武批判の映画だろう。自ら「北野映画」を記号化しそれを過剰に増幅し、破壊までしかねない。もはや過去の北野作品も同じように観ることは出来なくなるだろう。
ちょうど最近読んだせいもあるのだろうが、『ヴァリス』におけるフィリップ・K・ディックのような、阿部和重の小説における書き手のようなものを感じた。