ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』アメリカ、2005年 @新宿武蔵野館

時間と空間を示すこと。物語や意匠ではなく、さらにそれらを乗せるメディアとしての「映像でもなく、そのもうひとつむこう側の、むき出しのなにかを映画は示すことが出来る(ここで言う「なにか」とは映像というシニフィアンによって表象されたシニフィエではないし、そのシニフィアンシニフィエが短絡しているが故に映像はスペクタクルである、というような映像理論とも違う)。
もう『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』の頃からわかっていたことではあるが、ジャームッシュは「言いたいこと」を持たない。映画で言いたいことを言うこと、またはそれが出来ると言うことを信じてはいない。では何を信じているのか。映画の力をである。物語はある「場」を示すための方便にしか過ぎないように思える。
だから、『ブロークン・フラワーズ』で注視するのは息子の母親は誰かとかそういったことよりも、ビル・マーレイの目の動きであり、それを取り囲む人、あるいは人々との物理的・心理的な関係、距離であって、もうほとんど幾何学のような映画である。空港や、飛行機内や、カウンセリングルームの待合室などでもその幾何学は発生するのだから、「母親候補」以外の人間との関係も、それらと同等に扱われる。
ふと今、アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』を思い出した。あの映画もこれと同じような意味で純粋な映画であったとおもう。写真は関係性の芸術であると確か荒木経惟がいってたいたが、それとは少し違った意味で、映画は関係性の芸術であると再び唱えよう。
何者かが投函した手紙が回収され、仕分けされ、配達されるという、美しいオープニングシークェンスが、これが純粋な映画であることを示している。
最近のジャームッシュの作品の中で、もっとも純粋である。