細田守『時をかける少女』日本、2006年 @テアトル新宿

まさに細田守の集大成のような作品で、傑作というよりも代表作といった感じではないだろうか。今までの作品から受け取った細田守の指紋とでも言うべき演出が随所に観られる。
タイムリープ」という極めて映画的なモチーフによって、細田守の指紋の一つである、反復とそのズレがいかん無く発揮されていて、後のトークショウでも自身述べていたが、それが演出のための演出ではなく、映像による語りの上での必然として機能していて、演出としてそれを誇示するような位置付けにはならず上品な印象を受ける。
相変わらずの立体的な画面構成、フォトレアリズムな背景。細田守作品の美術にはフォトジェニーを超えたアウラが漂っている。徹底したロケハンによる「リアル」な情景は、逆にフィクションを強く補強する。世界をありのままに捉えてしまうキャメラと違ってアニメはそのリアリティの強度が強いほど、生々しさが強いほど強い記号性を帯びてくる。この統制された生々しさこそが演出という行為なのであろう。
クライマックスの最後の大きなタイムリープ、83年の大林版でも大きな見せ場であるこの個所において、アニメは現実に侵食してくる。実写がそのまま取りこまれた背景に人物や小道具が配置された画面。しかしながらこれは物語の直線上ではそれよりも過去の描写であった。思いで=過去という地平においてアニメと実写は映画=記憶の前に等価であると宣言しているかのようだ。庵野秀明エヴァンゲリオンの劇場版でやったこととはまったく異なる。
さらにその後の「なが廻し」横アングルで疾走するヒロインを描ききったシーン。彼女の息遣いのみの音声が屹立してきて、ここでは音声とその技法を超えたエモーショナルな画面が立ち現れる。これは今まで細田守にはあまりみられない感じの映像だ。
細田守は記号化され、整理された演出と、それゆえのアニメ独自の生々しさとの狭間に屹立する作家だろう。もっと現代に鋭く突き刺ささる次回作を熱望してやまない。