万田邦敏『ありがとう』日本、2006年 @丸ノ内TOEI1

またしても映画(というか世界のすべて)に対する私の観かた、付き合い方が二律背反にジレンマを引き起こす映画だった。これを安易に傑作ということも駄作ということも私には許されない。
私自身も神戸に生まれ去年まで住んでいた「被災者」であるという点、これをこの映画を観る際、語る際に無視出来るのか、無視すべきなのか、すべきでないのかということ。例えば戦争や原爆を映画は表象してきて、私はその表象しようとする対象を知らない。だからこそ論理性をもって、理性的に倫理を語ることも出来よう。実体験していないものの特権で成り立っているような倫理である(私はこれを無責任であるとは必ずしも思わない)。ここで吉田喜重がいうところの表象不可能性が付きまとってくるのは当然で、単純にトラウマを再現(表象)して良いのか、そもそもすることが出来るのか、またしても良いのかという問いにぶち当たる。何をやっても良い、というのも事実であろうし、そんなものは映画はおろかあらゆる「表現」において不可能である、というのもまた事実であろう。ともあれ前半の震災のシーンの数々を楽しんでいる自分と、これは楽しめないと考えている自分がせめぎあっていたのは事実だ。
unloved』は純然たる日本映画だと思ったものだが、このフィルムはアメリカ映画、それも現代アメリカ映画に対して正面から挑んでいる、稀有な映画である。スティーブン・スピルバーグクリント・イーストウッド、この両名が観はじめてすぐに脳裏によぎった。冒頭の素晴らしい空撮で後者の名前が過ぎに浮かんで来た(もともと『unloved』という作品のタイトルで、イーストウッドの名前は万田の頁にインプットされていたのだが)。そして「震災」の描写シーン。これはサンテレビや、ヨミウリテレビで観た、震災の記録映像を強く想起させるような、「ドキュメンタリータッチ」の作劇。言わずもがな『プライベート・ライアン』や『ミュンヘン』のスピルバーグである。そしてこの両名は奇しくも『父親たちの星条旗』でシンクロすることとなる。それらに対応する作品として日本の万田邦敏の『ありがとう』を位置させることは吝かではない。
一番最初に「神戸」「カメラ点」「ゴルフ」「消防団員」などといったキーワードが赤く示され、それが文章によって埋められる。これは誰しもが観る前に思う、震災とゴルフをどのように繋ぐのかという点を映画として示すという宣言のように思えたが、結局ナラティブにも映画としても説得力を持たせることは出来ていないように思う。というかむしろゴルフである必要は全くなくて、何でもよいのだろう。なにより赤井秀和のゴルフのフォームが素人目にも駄目でこれを演出でまかないきれていない。
しかしともかくラストの「奇跡の<ショット>」によって昇華されるだろう。あの木の切れ間から差し込む懐中電灯の光は素晴らしい。
それにしてもやはり女優の撮り方が見事で、田中好子薬師丸ひろ子のショットの切り取り方は素晴らしかった。例えば長女と母親である田中が父親のゴルフについて語る場面。娘は布団叩きでゴルフパッとをしながら母親と話している。まずパッティングの練習道具が映され父親かと思いきや布団叩きが映され娘(あの娘役の尾野真千子はなかなか良いのではないだろうか)であると分かり母親と会話を交わすこのショットが単純に素晴らしくて、ゴルフのシーンが悉く物足りないのに対して、田中好子を中心とした留守を守る家のシーンが素晴らしい。ゴルフ場の方もそれに呼応するかのように、プレーのカットはともかくキャディーである薬師丸ひろ子が絡むカットが素晴らしくなる(しかしあの古典的な噂をすると妻がくしゃみをするという流れはいかがなものかとは思った)。
とまれ、振りかえってみると震災と女性の映画だったような気がする。消防士とその妻達でもいいか。
文章に記し出すとかなりの傑作のように見えるが、かなりゴルフをはじめとして留保点がつくのも事実ではる。