蜷川実花『さくらん』日本、2007年 @シネクイント

悪くないと思った。
遊廓を舞台にした映画なぞ、邦画の定番中の定番であり、それこそ傑作だけでも沢山あるのだが、それらと比較して論ずるのはあまり賢明なことではないと思う。「女の情念」渦巻く世界を云々とかいって、例えば木村佳乃土屋アンナが取っ組み合いの喧嘩をする場面で、ああ、一番肝心なところで、カットを割ってしまった、何故そこをワンカットでやらないのだ、とか、全体として人物の全身がちょうど入るミドルショットや、あるいは顔面がバランス良く入るアップばかりの画面構成で、何故もっとひいいたショットでこの遊廓全体の蠢きを捉えないのだ、とかいう言いは確かに的確であるし、私自身強くそう思うからこそ敢えてこう記すのであるが、この作品の本質にはあまり触れない的外れなものだろう。
そういった「情念」だとかパワーゲームだとかを表現することを、重要視していない。
ひたすらマニエリスム的にモノとして人物を動きではなくもっと抽象的な印象として描ききっている。だから人物がちょうど良く収められるミドルショットが多いのは当然のことで、遊廓という設定や、そこで起こる様々な出来事も、彼女たちにああいう立ち居振る舞いをさせたり、ああいう表情をさせたり、ああいう言葉遣いをさせたり、ああいう音楽を使ったりするための装置であり、それがここでは正しいのだと思う。
数少ない屋外のショットや、何よりも土屋アンナがノーメイクである場面の表情などが素晴らしいのは、私がソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』で素晴らしいと思った個所と同様である。おそらく様々なこのフィルムに付けられるだろう修飾語のようなものを剥ぎ取った部分が期せずしてか滲み出している部分にやはり私は惹かれてしまうのだった。