山本政志『聴かれた女』日本、2007年 @ポレポレ東中野

これは「聴かれた」女であって「観られた」女ではない。だからどの程度我々がこれを観れているかも脅かされてくる。
ラスト部屋にやってきた彼女を男のロマン的なフィクションのハッピーエンドとして捉えるか、それともやはりあれもまた「聴かれた」ものなのか、私は後者であると言いたい。でなければ、あまりにもそれまでの批評的戦略を裏切る安易な結末ではないか。
序盤の彼女の部屋は男の想像の産物であったという叙述トリックは、ただのトリックではなくて、もっと批評的な観ることと想像することを同義に捉えすぎてはいやしないかという挑発に他ならなくて、そこから「想像とちがう」現実をみることが始まる。だからその流れで考えると、1度目は「想像とちがう」から成就し得なかった性交をラストでああいうかたちで成功させたというのではちょっと腑に落ちない。何よりも主人公の男は、「聴く」ことにおいて常に安全地帯にいて、たとえ自分がずっと聞いていたことがラスト近くでばれたとしても、自分が聴かれる可能性というものが無い(瀬々敬久の『ユダ』はまさに安全地帯にいることを糾弾するものだった)。
部屋でダンスを踊るシーンが素晴らしくて、これを観てやはり(さっき観た『さくらん』の揺り返しもあって)映画の本質ってこれだよな、と思った。