諏訪敦彦『不完全なふたり』(+監督舞台挨拶)フランス/日本、2005年 @新宿武蔵野館1

コミュニケーションの不可能性だとか、他者との分かり合えなさ、とかいったところで、やはり眼前には他者がいるのだし、言葉や映画といったメディウムに対して不信を表明したところで、やはりそれを使って生きてゆくしかないのだ、「しかない」とかいうと、ネガティブな響きだが、そこには徹底した強い肯定の力が必要である。
このフィルムのほとんどのシーンに、扉が登場する。キャメラはその扉がいつも中央に鎮座するように配置されていて、何が起きても微動だにせず、見詰めつづける。扉が閉ざされたり、フレームアウトして画面に人物がひとりも映らなくなっても、そのまま自信と信頼とをキャメラ自体が持ってるかのようにじっとしている(今回はハイビジョンキャメラによる撮影の為、メディアの特性上横への動きに弱いので、今回はキャロリーヌ・シャンプティエが「パンはしない」と宣言したそうだ。そのような実際的な理由は無論映画にあって常にあるものだが、この制限を窮屈に感じさせないところがポイントである)、すると閉ざされた扉の向こうやフレームの外から、音が声が静かに響いてくる。このようなフィルムが車の窓ガラスごしにふたりが映されているショットから幕をあけるのは驚きであると同時に結果的に必然であるように思う(舞台挨拶で監督は「このファーストシーンは窓ガラスごしに撮るべきだと、シャンプティエが提案した」といっていた。)。
そんなキャメラがついに動き出すのは、やはり人物の感情が動き出すときで、つまり演出である。美術館を訪れ、ロダンの彫刻を見て涙を流すショット。突如キャメラはマリー(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)の顔に寄る。DVによる粒子の粗いクロースアップショット。無論静かであるが、幾重にも重ねられた感情の襞が一瞬可視化されたようだった。序盤のレストランのシーンでも同様にマリーに寄るショットがあるが、やはりそこでも彼女の感情に寄り添っている。
そして、これは事件であると言ってもよいと思うのだが、あのニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)が明け方にホテルに帰ってきたシーン、やがてまたしてもマリーの顔のクロースアップになり、感情の応酬が始まったかと思いきや、次のショットはなんとニコラの顔のクロースアップ。視線を交わしているよな演出は無論されていないのだが、これは切り返しである。諏訪敦彦の作品で切り返しを観たのは記憶にない。ここでマリーのクロースアップを撮る際、シャンプティエはニコラのクロースアップも撮るべきだと主張したという。これで平等よ、と。このクロースアップの素晴らしさはいささか形而上的な響きもあるだろうが、素晴らしいと思う(このエピソードは諏訪敦彦という映画作家の生が映画そのものと共に生きられていることの証左であると思う。ひとりでは生きられないふたりを描くにはこの方法論は必然である)。