山下敦弘『天然コケッコー』日本、2007年 @新宿武蔵野館1

なぜだかは何となくわかっているつもりなのだが、山下監督作品はいつも距離のとりかたに困ってしまう。ひとえに自分の自意識の問題だと思うのだが、傑作と誉め讃えるのはもちろんのことだが、駄作だ、受け入れられないと叫ぶのも違う。それぞれの言い方にもっともらしい論を付するのも難しくないだろう。
この作品はこのことにはっきりと気づかせてくれた。
嗚呼、夏帆という女優のまさにこの瞬間がピークだと叫ばんばかりのイメージ、これを焼き付けただけでも傑作であることは間違いない。誰もいない教室、夏帆を追って水も滴るようなパンをするキャメラ、彼女は触れることのできる全て、今しか触れることのできないものの全てに、掃除当番表に、給食当番表に、地球儀に、彼に、そしてこの教室の象徴、顔であるところの黒板に、くちづけする。ヒロインなりヒーローなりが素晴らしく活写できていれば、十分傑作である…。ほら、心を込めて描写できる。
が、本当にそれでよいのか。このキャラクター達をやはり信用してはならない、と声がする、ソフトな口当たりの良い毒を飲んではならない、と。山下監督がいつもフィルムに忍ばせている毒はこれだ。彼女が一瞬目撃してしまう父親の浮気らしき男の部分、中学生の女子に心を寄せる目をむいた男…、実は毒ではない。毒ではないものを毒であるかのように、隠し味のように配置する。あくまでもそうなのだから、決してわれらが夏帆は蹂躙されることはないだろう。否、これはファンタジーなのだから、フィクションなのだから、すべての映画に突き刺さるような毒を忍びこませなければならないのか。そんなわけはない。ケーキを食べて塩辛くないとダダをこねるようなことなのだろうか…、だが、一番の毒は他ならぬ夏帆の演ずるところのそれであろう。本来検証されるべきはずの行動が、操作可能なイメージによって不可視であるかのような地点に放られている。本来はこの可憐な主人公の持つ毒を見せるべきなのだ。おそらくは前作の『松ヶ根乱射事件』今作は逆に作られるべきだったのではないか…。ほら、貶せる。
おそらくここから見えてくるのは私がこの作品を好きか嫌いか、ではなくて誉めたいか貶したいかという卑小なところに帰結してくるようにも思えてくる。確かに好きなのだろう、山下作品を。でも許せないとも思っている。
だからこの作品を絶賛する声も叩きのめす声も私には聴こえはしないだろう。
積極的に保留したいというのが今の結論だ。