昨日観た山下敦弘『天然コケッコー』のことについて、もう少し

今日も、昨日観た『天然コケッコー』のことが気になってしょうがない。『松ヶ根乱射事件』ではこんなことは全くなかった。
ざわつくとういうか、いや、胸が掻き乱されているというのが一番しっくり来るだろうか。今日のバイト中(数ヶ月ぶりに遅刻してしまった。5分や10分ではなく、2時間の大遅刻だ)何度もこの作品のことを考え、泣きそうになっている。やはりこの作品、「好き」ではある。
例えば細田守の『時をかける少女』、初見の印象、端的にいうと確かによい作品だけど物足りない。
しかし、全部に目を通したわけではないが、その後に出た様々感想や批評や本人のインタビューを読んでいると、大傑作だったかのように思えてくる。実際その文章を読んで、映画を観たときよりも感動して目が充血して背筋がぞぞぞ、となる瞬間もある。私が間違っていたのではないか…、それほど書き手の熱意と感動が伝わってくる。これこそがよいレビューであり、批評であるのだろう。
とは思うのだが…、
しかし、細田守という作家への思い入れを括弧にいれても(そんなことは果して出来るのだろうか、という問いは残るが)、私にとって決定的な作品でないことは確かで、この前テレビでやっていたのをチラッと観ても(かなり乱暴で心許ないが、その分一瞬の力もあるだろう。テレビなどでは分からない、というのは当たり前だが、断片をテレビで一瞥しただけでも掴んでくる種類の力強さがある作品はやはり凄いのだから)やはりその印象は変らなかった。もはや『時をかける少女』は実際の作品よりも、文章を読んで(しかも観る前ではなく、観た後にである)そこから私の脳内で上映された『時をかける少女』のほうが遥かに素晴らしい作品になってしまっている。が、それはそれ、これはこれ、細田守監督作品『時をかける少女』は様々な面において物足りない作品であると感じたことには変わりない。しかし、明日では無理だろうか、数年後、数十年後に見直すと評価はがらっと変るかもしれない。
おっと、話しが冒頭から脱線した、でもこれでいい。思ったことをそのまま書いていこう。
で、何がいいたいかというと、まずは昨日かいた文は何なのだろうか、ということ。『時かけ』と一緒で、観た後に自分で作り上げたイメージを、むしろそのほうを愛で、涙を流しそうになってしまったのではないか、という疑惑。と同時に、私は『天然コケッコー』を手放しで、バンザイバンザイといって、誉めるのが悔しいのか、嫉妬しているのか、この作品を誉めると、私自身がどうかなってしまうとでもいうのか、自分を否定するとでもいうのか…、つまり私はそんなさもしい自意識によって映画を評価しているのか、なんて自問が観た直後から、文章を書こうとするとき、そしてこの瞬間も渦巻いている。
だから、今もついさっきまで、やはりこれは大傑作だ。と宣言しようと思ったが、やはりそれは無理だ。そもそもそんな理由で逆に大絶賛したとしても(そもそも昨日の文章でも、いい映画だとはいっている)それこそそんな自意識での裏返しに過ぎないだろうし。
やはり冷静に考えるに許せないショットが何個かあった。シゲちゃんの捉え方とかはやはり許せない。「変な人」への愛情というか距離感というか、少し違うとやはり思う。それは山下監督の他の作品においてもいえる。一方的に君は君で良いんだよ、成長しなくても、立派じゃなくてもいいんだよそのままで、面白いから、というような感じである。それを「ほら面白いでしょ」とスマートに提示するのではなく、確信犯的にさも普通ですよという感じで提示することに嫌さを感じる。問題はそういう人たちを変だと思ったり、面白かったりすることの、「何故」の方だと思うし、そこに突っ込んでいった方が本当に面白いし揺さぶられるとも思う。
田舎の子は純朴で素直で、という作品ではないと感じた。そよの個性というのは田舎育ちだからだと言う文脈では括られないものだろう。対して広海のほうも都会っ子だからというものでもないだろう。それが大人になっていくにつれて「田舎」という枠にいい意味でも悪い意味でも詰めこまれた人物像になっていっているような気がする。しかも「いい田舎」像にあるような場面ばかりを(父親の浮気らしき場面も「いい」だと思う)。それだけ子供たちは特権的な位置にいるのだよ、ということであるとも思うし、実際に田舎で生きていくとはこういうことなのだよ、という気もするが、やはり腑に落ちない。
また急に何を語っているのかずれてきたなぁ。とにかく一言では、一面では語れない作品であることは確かだ。
プロの監督なのだから、与えられた、選んだ、仕事を、それをしかもかなりの水準でこなしている作品なのだからいいではないか。そうだろう。だが、腑に落ちない。
ああ、またしても私は山下監督に対して変な自意識を交えた思考に陥ってしまっている。恋でもしてしまったのだろうか。
それでもこの作品を素晴らしいといってしまうのは結局は夏帆なのだろう。