メモその2

「映画は言語活動である」という考え方と「映画は言葉を使った(ヴァーヴァルな)言語活動とはあくまでも異なるものである」という考え方が、言語学的な角度から映画にアプローチするものを二分している。

以前Dravidian Drugstoreというサイトで

「映画は言語ではない」
「映画が物語を語ることが出来たからこそそう呼ばれているのであって、映画の根源的な部分には言語がインストールされていたということではない。」

という、議論があったんですが。
http://home.att.ne.jp/gold/dravidian/documents/musicvideo02.htm
うむ。確かに私も最初から映画が言語だったとは思わない。だが、「今」の時点においてもなお、言語ではないとも思えない。
わたしは映画は言語に「なった」のだと思う。しかも音声言語とは別の言語として成ったのだ。映画の言語活動は進化して来、今も進化しつづけている。音声言語のようにある程度「完成」された型があるのではない。

言語活動であるがゆえに映画がかくもみごとなお話(コント)を語りうるのではなく、映画がかくもみごとなお話を語ってきたからこそ、ひとつの言語活動になったのである。

クリスチャン・メッツ『映画――言語体系(ラング)か、言語活動(ランガージュ)か?』、『映画理論集成』岩本憲児編のなかの一編より

以上、クリスチャン・メッツ『映画――言語体系(ラング)か、言語活動(ランガージュ)か?』を読みながら。