『ぼくの魔法使い』のこと

実は私所謂「テレビっ子」ってやつでして、家に帰って先ずすることはテレビのスイッチを入れることです。そして、寝るまでつけっぱなし。そして朝起きたときも煙草に火をつけるよりも先にテレビをつける。家を出るときまでつけっぱなし。その所為で遅刻することも多数。
でも、もう5年くらいでしょうか。テレビドラマってもう全然観なくなってしまっていて、この前にちゃんとコンスタントに観たのは確か赤井秀和と妻である稲森いずみの妹である鈴木紗理奈が不倫して…みたいなドラマだったと思います。「誘う女」でしたっけ?つまりどっちにしろシニカルにしか楽しめていないわけです。「本気」で作ってるドラマに限って「内容」、つまり情報でしかなくて辟易してしまうんですね。
で、今回は珍しくかなりコンスタントに観てました『ぼくの魔法使い』というドラマ。「ドラマ」と呼んでいいのでしょうか?誉め言葉ですよこれ。一応。別に私、宮藤官九郎のファンというわけではありませんし、まぁ終わったからといってなにか特別な感慨があるわけでもないんですが。
もう本当に雰囲気だけの番組ですよね。なんか「土曜日の夜」って気分になってました。テレビ的な記号(テロップだとか、カラオケの映像のような画面とか)を自虐的にふんだんにつかって、ゆるい雰囲気をかもし出してました。ベッドシーンになると突如挿入される映像も、紛糾する台湾議会の映像をつかったときは笑いました。
パロディとかコメディとかそういうものって、作っている本人の意思とは関係なく、そういう「笑い」のなかには無意識的な批判というものが読めると思うんですが、井川遥や、篠原涼子がCMでお茶やジンジャエールを飲むとか、またしても井川遥が本人役で出ていて、「癒し系」なる謎のポジションをいじったりとか。このあたりは「意味」というか記号、敢えてむずかしく言えばシニフィアンシニフィエの遊びは徹底されていると思います。そもそも篠原涼子古田新太がの体が入れ替わってしまうという設定からしてそうですよね。そのあたりの視点は一見雑多に見えるこのドラマの中でも一貫された一個の軸になっていると思います。
まぁ、悪意というかいたずら心が読めます。普段あんまりドラマ観ないので、良くわかりませんが、これって変わってますよね?
それとは別にテレビの「画質」や「放送」され不特定多数の人間が同時に視聴するという特徴のもとでのみ機能するタイムリー性。確かに面白いけど一過性のものであることは否めませんよね。でも、それで良いのではないでしょうか。豊かな消費活動だってあるはずですし。
しかし、こういうものって内容を幾ら検討しても、検討すればするほど面白さの本質を逃してしまいますよね。どうでもいい訳ですから。かといって、洗練されたスタイルがあるわけでもなし。テレビという気楽なメディアで週末に気楽に楽しむのが正解ですね。テレビならではの面白さ。
この作品が映画だったら多分私は憤慨していたと思います。
でも、こういう人たちって調子に乗って映画を作ると失敗するんですよね。