昨日の徹子の部屋に

吉田喜重がゲストで出ていた。話の内容は幼くして母が死に、女中に育てられたことや、福井で体験した空襲と広島の原爆のこと、そういったことは当事者、つまりそこで殺されてしまった人にしか語ることが出来ないのではないか。原爆を撮影することは物理的にも倫理的にも不可能ではないかといったこと。大体は『鏡の女たち』を観にいったときの舞台挨拶とほぼ一緒のことだった(2003年5月4日参照)が、大学生のときに父親が失明していたという話は知らなくて、興味深かった。映画監督の父親が盲目であるというエピソードはそれだけで何かヒロイックで詩的なものを感じてしまう。しかし、そういうものだけではなく、吉田喜重の作品はいつも「視線」というものを非常に意識したつくりになっていて、それは例えば鏡であったり、周到に隠されているイメージだったりする。父親が盲目にならなくても、吉田喜重ならばこういう作りをしたであろうと思うが、何らかのモチベーションになっていることは確かではないだろうか。父親は吉田の作品の音だけを鑑賞していたそうだ。吉田喜重の台詞を大事にする作劇、一言一句をしっかりとかみ締めるような演出はそういったこともあるのではないかと思う。しかし、吉田はそれほど音響面で際立った仕事はしていないよな。とも思う。