『仮面ライダー555』のこと。

今期の『仮面ライダー555』は、文句も多々あるものの、所謂クウガから始まる「平成ライダー三部作」の中でも際立ってよい作品だと思う。残念ながら、全放送を見ているわけではないのだが。
度々、キメ台詞が「青臭い」とさえ思われるような主人公の巧(「夢を持っていると〜らしいぜ」とか…。まぁこれはつまり芝居が下手だということも当然あるが、これはヒーローものの宿命であり、芝居が下手だという批判はだだの事実を確認する作業に過ぎずあまり意味が無いと思う。)だが、これが不思議と不快感を催さない。
クウガからの試みである上下をマスキングした、「ハイビジョン仕様」はつまり、平成ライダーは物語を「映像で語る」というこを強調して、意識してかかるという決意表明に違いなかったのだが、それが空回りしている印象を受けていた。
物語論になってしまうが、私はオンタイムで『仮面ライダー』を観たのはブラックからであった。ブラックは幼い私の心に深く跡を残した。石森作品の徴である悩めるヒーロー、そしてなによりもビジュアル的にもキャラクター的にも私の生涯ナンバーワンに無理矢理鎮座しているシャドームーン(赤い彗星のシャアにも匹敵すると私は思っている)。決して明るく、軽いものではないが、その陰りに魅せられた。ともかく敵は自分を含めた近親者であり、敵を敵と認めることさえ悩む。とにかく主人公は悩む。というのが仮面ライダーの伝統であろう。
それはもちろん平成ライダー全てに受け継がれていたのだが、そういう葛藤の部分が「謎」として、物語上先延ばしにされ、小出しにされ、謎解きとともにそれも昇華、消化されていく。平成ライダーは謎解きの物語である。
ファイズも無論謎解きの物語であろう。が、今回「敵」は"unknown"ではない。オルフェノクという名称がついているし、私達に理解できる言葉をしゃべっているし、組織もある。「敵」との相容れなさと、理解可能性との葛藤(その象徴としての「中立」のオルフェノクたち)、が物語としてうまく機能している。これまでのような「敵が何だか良く分からない奴」と言う恐怖から、そういう葛藤から来る悲しみのようなものに変わっている。そして主人公自身も「敵」にカテゴライズされるべきオルフェノクであったこと。これはショッカーによって改造された仮面ライダーの変種であり。後継者としてしっかりと位置付けることが出来る。ヒーローと敵が同じモノであるということ。これはライダー同士が戦うという、「敵も味方も無い、何でもあり」というのとは違う。
「映像で語る」という点がほったらかしになっていたが、平成ライダーの「画質の良い」、「ハイビジョン仕様」の画面は、薄っぺらいものだと言いえる。これまでの作品はそれでも高級感を出そうとして、似たようなロケーションで、綺麗な建物や、まったく人気の無い場所など無意味に整った景観で、まるで学生の自主映画のように、気張りすぎていた(龍騎などはアイディアとして面白かったし、ああいう「戦う空間」という発想はシャイダーなど宇宙刑事ものの伝統といえるだろう。ライダーの造型自体、宇宙刑事を思わせ自覚的にやっていたと思う。)。私はこれが美しかったとは決して思わない。従来の美的観点に照らし合わせればフィルムで撮影されている、同時に放送されている戦隊も野の法が美しい。それがファイズでは、薄っぺらさが薄っぺらさとして機能している。奥行きが感じられない、フレームの外にも人びとはいて、生活しているとは考えられないような薄っぺらさ。生活感の無い潔癖症的な画面。それは、登場人物達の過去の希薄さ、主人公の投げやりさやアイデンティティの希薄さ、そしてスマートブレイン、オルフェノク、流星塾という設定自体が、閉じられたものであり、それら与えられた影の無い幽霊のような存在感に符合する。登場人物の誰もが人間離れしている。だから、主人公の吐く青臭い台詞も青臭い台詞として聞ける。それは巧自身がその台詞に対して疑問を持っているからであり、ときには自分の言葉ではない引用であり、また、自分自身に言っているからであろう。決して我々に語りかけているのではない。そして、自分自身の薄っぺらさにも自覚しているからであろう。
ファイズ平成ライダーの中でもっとも仮面ライダーである。ファイズを「ハッピーエンド」で終わらせてはならない。独りひっそりと去っていくのがふさわしい。
打ちながら、考えがあっちに言ったりこっちにいたりしてしまった。最終回を迎えたらもう一回考えよう。