吉田喜重『告白的女優論』1971年/日本 をビデオで

私は告白する

なんと私的でスリリングな作品であろうか。
松竹のスター女優、すなわち「商品」である岡田茉莉子と結婚し、結果自らも松竹を去ることとなる監督、吉田喜重。当然彼らの私生活とこの作品の表象とをリンクさせざるを得ない。
「三大女優」はそれぞれ海堂あき(浅丘ルリ子)、伊作万紀子(有馬稲子)、一森筐子(岡田茉莉子)と役目が割り当てられているが、我々は映画を観るとき通常、浅丘、有馬、岡田それぞれの表象、演技をそれと理解しつつ観ている。この映画に観られる、女優における表象と内面の葛藤、実はこんな二項対立など存在しないのかもしれないが、擬似的にあれ、彼女らはそれに苦しむ。という演技を我々は観ている。文字通りハレの舞台である映画撮影の現場においてもちろん、ケであるところの日常生活においても彼女らは、もちろん我々自身も演技をしている。ただ、悲劇なのは女優たちはその演技するということを職業に選び、絶えず「演技」というもを自覚せざるを得ないということで、我々はそのことに対して対価を払っているのである。大勢の目に晒されること、不特定多数の知らざる目、舞台の場合は自分に見えている人にしか見られていないが、映画は時間も空間も無視し、本当の意味での不特定多数、撮影された瞬間、現像が上がった瞬間、公開された瞬間から、それこそ永遠に他人の目に晒されることとなる。視姦されることになる。
それぞれの女優の役の過去や関係した男、それらの真実と虚像は結局は藪の中で、何が嘘か、何が演技かは永久に「藪の中」である。演技をしていない演技も可能である。にもかかわらず、彼女らはしきりに鏡を観る。伊作万紀子に至っては鏡を自ら壊そうとするのだが、壊れてもなお自身を映し続け、結局最終的には自ら再び手鏡を取り、自身を映す。虚像と実像との狭間に「真実の自分」がいるのだと夢想するように。
この映画がスリリングであるのは、もちろんその話法、吉田喜重の中心をずらし、画面の一部を覆う人為的な画面作りには、いつもサスペンスの匂いが付きまとい、それを覗き見ているという感覚がある。決定的なことは遂には起こらないサスペンス。そういうものはたいてい登場人物の「告白」というかたちですでに起こってしまい、そこにはキャメラはいなかったこととして存在する。その最たるものはやはり最新作の『鏡の女たち』であるが、この作品についてもやはり同様である。確かに、女優それぞれの回想シーンでは現場での場面が示されるか、あるいはその場で再現されている。が、それらのシーンはどこまで行っても彼女らの想像、それは記憶すら含めてしまう想像でしかなく、その証拠に有馬扮する伊作万紀子の少女時代のシーンのあの醜さは、あくまでも、これらの回想シーンさえ、現在形の記憶でしかないことを残酷なまでに物語っている。あれらのシーンを他の女優が演じてしまっては、この作品の全てが崩壊してしまうだろう。
ここまで残酷な映画を成り立たせているのは吉田喜重の視的な思いに他ならないのではないか。「告白」しているのは無論吉田喜重自身であろう。この映画の視線には吉田喜重の女優(無論とりわけ岡田茉莉子)への愛の懺悔に近い告白だろう。そして女優である部分とそうでない部分の女の二項対立に苦しんでいるのはむしろ吉田喜重自身なのではないか。