芥川賞作品のこと

読んでから少し間が開いてしまったが、一応。
この2作品を比較して語るのはたやすいだろう。この両作品が作り上げている言語空間は、完全に閉じられていて、それぞれの主人公の「わたし」たちの目に映り、肌で感じる部分しかイメージとして立ち現れてきていない。閉じられた世界である。というよりも外部からは何物も侵入してこない。させていない。してきてもそれをそうと感じずに黙殺している。自ら閉じこもっているというよりは、未だ開かれていないと言う感じ。しかし両者ではその「閉ざされ方」に違いが見受けられる。
私は読書量が圧倒的に少ないし、「現代文学」もあまり読まない。だいたいは作家は故人になっていて、一定の評価の定まったのを読むのことが多い。正直言って、文学体験をしてそれをまっとうに批評する言葉をまだきちんと持っていないのが現状で(ならば映画には持っているのか?と問い詰めらても、自信を持って「ある!」と応えられるようなレヴェルにも達していないが)、例えば同時代や、共通のテーマを持った作家を取り上げてどうのこうのすることは出来ない。
だから、「文学」として語るときは、極論すれば単純な印象の好き嫌いでしか語れないと思う。
つまり、未だこれらの「現在」のものをきちんと読めているとは言いがたい状態に私はあるのだろう。
でも、少しずつでもこうして考えて、足跡を残していくことが自分にとっては糧になるのだと信じてはいる。

次に述べる『蹴りたい背中』と違い徹底して肉体的感覚にこだわった作品である部分が好感を持てた。「ボディピアス」や「刺青」などに限らず「パンク」や「ギャル」といった、表層的な意匠が内面といわれるところの思想や主義をも決定している。終始語られることになるスプリットタンの説明的描写などは、安部公房の『他人の顔』のマスクや『箱男』の箱などを思わせ、こう言った儀式的なものを通して、肉体という表層を改造していき、「なりたい自分」になるわけでも「偽者の自分」を演じ「本当の嫌な自分」を偽るわけでもなく、まるで性同一性障害の人間が性転換手術を受けるかのような感じで、外面で内面を支配、制御しようという実験のようだ。スプリットタンにはすぐになれるわけではなく、段階を置いて徐々に穴を広げていき、最後は紐で縛り切るという、まさに誕生のメタファーであり、リバース、再誕生を意味している。それが完成する前にアマは死んでしまい、00Gでそれをやめてしまう。これは水子の物語なのである。
もちろん、動機としてそれはアマとの同化というものがあり、そのアマが死んだことが水子になってしまった原因である。しかし、妊娠中絶と同様に、身体と心に「傷」を残してしまう。00Gまで開いた舌の穴はなかなかふさがらないだろう。(このくらい大きく開けたピアスの穴がふさがるのはどのくらいかかるのだろう。直接は関係ないが、この前テレビでニューハーフの人のレントゲンを撮るというのがあって、股間に開けた穴はやはり「傷」なのであって、常に棒のようなものを突っ込んでいて、そうしないと穴がふさがってしまうとういっているのをみた。)
その中で何度か死が現れるがそれはどれも不可視の場所で起こっている、主人公の目の前では決して人は死の瞬間を迎えない。それはアマが殺したかもしれないヤクザの場合もアマ自身の場合も書類的に訪れる、言葉が死んだことにしている。死んだアマの顔を主人公は見ていない。それでいて、主人公は好きな男たちに殺されることを望んでいたが、終盤、シバさんは傷つけても苦悶の表情を浮かべなくなった主人公に生理的な関心を失ってしまった。これはシバさんの中で死というものに対する具体的なイメージが変化したからで、それに伴い、死と相関項にある性も変化したのだろう。主人公がアマの死をきっかけに腑抜けてしまったのだけが理由ではないと思う。アマを殺したのがシバさんだったとしたら、このようになることは分かっていたはずであるし、
物語がちょっとしたミステリー風になっているのも安部公房を思わせた理由の一つで、これで全身ピアス人間や、全身刺青人間、刺青をした動物、ピアスに人間がくっついているような男、「これは刺青ではない」という刺青をしている偏執狂の男などが出てきた日には大笑いするところである。もっとも、結局この作品世界内では決定的な場面はついぞ訪れず、アマは殺人を犯し、シバさんは主人公を手に入れるためにアマを殺しそれとは別な感情で犯したというのは間違いないと思うのだが、そういう状況証拠から判断されるもっともリーズナブルな帰結を主人公は拒否する。この拒否は同じに主人公の世界とは異なる場所にいるもの達への拒否であり、不必要な真実の拒否である。アマの死を拒否し、シバさんがアマを殺したことを拒否する。
まだちょっと整理しきれていない。

「っていうこのスタンス」というくだりのある最初のパラグラフには正直言って反吐が出そうになり、一度本を閉じてしまったのだが、気を取り直して読み進めると、だんだんとこの作品の中だけでも文体が洗練されてきているのが分かった。序盤の高校の教室内での、自然発生的なグループの創生。その集団力学の描写は丁寧で、良く出来ていると感じた。こういった部分がこの作品の中で、一番面白かったと思う。
多分私自身の実感もある、つまりリアリティをある程度共有しているからだとは思うが、こういう状態を私自身はあまり苦にも思わなかったし、来る者拒まず去る者負わずといった感じだったし、他の人間たちの集団力学を見物しつつ(この作品にもあったが、「浮いている奴」が実は共同体内での集団力学について一番知っている)、なにかそこでいざこざが起こらないかとワクワクして観ていた。つまりその中にいるにもかかわらず、意識としてその中に居なかった。しかし、合理的な、ロールズの正義論のような見地からすると、自分自身を自身が属する共同体から1歩引いたメタ的な位置から場に置いて、あれこれ思索するのはやはり間違っていると思う。この作品の主人公のような心理状態は、ロールズの想定した一番高度な段階には達していない、つまり「子供」であるということだ。「大人びている」というは子供だから形容し得るものであり、実際の大人を指して大人びているとは言わないのである。
中高生の頃の自分を見下しているように思える奴らを、逆に見下すという自己防衛本能のような行動には、何重ものメタ的な心理構造があると思う。周りから浮いている自分を発見し、それを肯定的に周りがくだらないからだと理由付け、そのことに気付く、そのために笑うこと(笑顔になること)を我慢する、そういう自分にもやはり気付き、、、このようなメタ的な考えの無限連鎖、野矢茂樹風にいうと、「メタの冪乗」のループには理屈的にも実際的にも出口は無い。そこから脱する一番簡単な方法はなにか外部に自分を客観視することを忘れるような物事を見出すことであろう。「にな川」が主人公と似たような立場に居つつ、主人公のような状態に陥っていないのは「オリチャン」があったからである。この際、その対象が健全かどうかは関係無い。
にな川に自分を客観的に分析されたり、絹代からも同様なことを言われて、嫌な感じがするのは、主人公の現象学独我論のような世界観にあって、自分を客観し出きるのは唯一自分のみであって、それを他人がするということへの違和感である。
そういう中で、主人公がにな川に肉体的な興味を持つのが面白い。しかもそれはセックスをほとんど伴わない、高校生とは思えないほどの無邪気さを伴っている。という点で、それに関しては唇を舐められてもさほど動揺しない(少なくとも主人公の視点では)、にな川についても同様で、この著者は男を知らないのかしらとさえ思えてしまう。このような、唯一男性としてきちんと登場するにな川のこのような物語上での扱いに、ややご都合主義的な気がする。結局にな川は主人公がつむぎ出す物語の進行に貢献していて、彼自身としての存在感がいまいち立ち現れてこない部分がある。概ね彼の行動が、事件として迫ってくることが無い。主人公の理解可能な部分だけで、彼の行動も描写されていて、異物として迫ってくることが無い。コンサートの待ち合わせに遅刻してきた主人公に嫌味を言うくだりなどは思わず笑ってしまい見事だっただけに残念。