映像の

今まで敢えて触れてきていなかったが、昨今のイラク情勢に関する情報というのは極めて興味深くて一度きちんと考察する必要があると思ってはいた。それは専ら映像によるもので、今朝も人質に取られていたアメリカ人が斬首されるという衝撃的な映像が配信された。この前も散々議論になった「日本人人質事件」の「演出された」映像。もともとこれらの「ニュース映像」への関心は、あの「9・11」から自覚し始めた。シュトックハウゼンがあの崩れ去るWTCを芸術的と評価したことはさすがに極論としてもスペクタクルを孕んでいることは確かで、見飽きた頃にやっと自粛され出した。被害者、関係者の心的外傷を刺激するからである。最近のイラク側から入ってくる「映像」は時期的にともかくとして、「9・11」の映像に対する映画からの回答は今だ満足がいくものが得られていない。一瞬の間だけ「自粛」という形でハリウッドはスペクタクルを中断したが、今そんなことがあったことなど忘れたかのような有様である。オムニバス『セプテンバー11』以降、むしろネオコンといわれるそれらへの反動ばかり強く観られてしまう。結局9・11がアメリカ映画に何をもたらしたかは私にはよくわからない。
それよりも気になっているのは「日本人人質事件」の映像である。ナイフを首につきつけられ泣き叫ぶ様子は解決した後になって初めて日本のテレビでは放送された。もちろん私を始め多くの人はネットで観ているだろう。(アメリカ人斬首の映像も同様であるが、さすがに地上波で流すことは出来ないだろう)
「演出」が問題になった。政府は「演出」に早い段階から気付いていたという。果たして本当なのだろうか。ここでいう演出とは何か。犯行グループが彼らを脅して演技させたのか、彼らが積極的に協力したのかそれすらも判ったということか。前者の場合入れ子構造になっているが結局脅迫である。脅迫という名の演出である。では、演出でない映像とはどういうものをいうのであろうか。というか、もともといろんな人が指摘している通り、演出、映画監督などといったものにはどこか独裁への欲望、全体主義への欲望が孕んでいて、その前においては政治のプロパガンダも高度な芸術も同じであるのだ。
(つづく)