ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道』1962年/フランス を授業で

我が部屋の小さいテレビデオではなく、AV教室のスクリーンにプロジェクションされた、まあまあ大きいスクリーンで観たので、昔ビデオで観たときとはかなり印象が違い、素晴らしかった。やはり映画は大画面で観ないとわからない。顔をクロースアップにしても、家のテレビではやっと等倍になる程度であるので、クロースアップのエモーショナルな機能を理解しきれない。それを一番実感したのは、ナナ(アンナ・カリーナ)が映画館で『裁かるるジャンヌ』(カール・テオ・ドライヤー)を観ているシーンである。ジャンヌのクロースアップとナナのクロースアップのモンタージュ。このクロースアップの迫力はやはり一定以上の大画面で観ないと実感できない。そしてこのゴダールの引用のしかたが、よりドライヤーの聖性を際立たせる。
のっけからの閑話を休題しよう。
キャメラの動き、カット割り、アングルの実験性には何度観ても感心する。例えばナナが勤めていたレコード屋でのワンシーン。キャメラは自由にそして美しくナナの動きを追い、横にドリーで往復したかと思えば、次ぎの瞬間には180度違う方向を向き、窓の外の通行人に向かってその視線を向ける。ワンカット。やはり何度観ても面白い。
もちろん先ず指摘しなければならないのはオープニングである。オープニングクレジットのぶっきらぼうな音楽のつけ方。映像は未だカットされることなく続いているのにもかかわらず、ミシェル・ルグランによる哀しげな調べは、ぶっつりと絶たれてしまう。我々はただただ映像に注目するほか無い。これはその後の断片的な音楽の使用をすでに予告している。そしてなによりもこの際に捉えられている、左右、正面からのクロースアップで捉えられたナナ=アンナ・カリーナの顔。そしてその後カフェのシーンから始まる本編では終始後頭部しか我々にその姿をみせない。その際に奥の鏡に顔が映っているのにも注目せねばなるまい。オープニングクレジットでこれだけ顔に注目させておいて、しばらくは顔を全くみせないという落差はやはり面白い。
ゴダールが世界最古の職業といわれる娼婦を扱った映画はこれだけではなく、昨今の自ら登場し、演技するものも含め映画監督もしくはそれに準ずるような人物登場する作品と双璧を成している。また、ゴダール自身、娼婦と映画監督そしてアンナ・カリーナを始めとするある種の女優に共通項を見出しているように思う(「芸能人」と呼ばれる種類の人が自らを娼婦になぞらえる例はよくあって、私の場合世代がらか、どうしても真っ先に思い出すのは"rape me"と唄い、「公衆の面前でレイプされているようなものだ」と発言したことのあるカート・コバーンであるが、彼を始めとして自らを娼婦になぞらえるのはたいてい男性であることは注目すべきで、更なる考察を要するだろう。男性には娼婦になる願望が無意識にあるのではないかとか考えてしまう)。映画監督を一個の職業として、映画制作を一個の労働として捉えるゴダールは娼婦という職業に労働の典型、原型を見出していたのではないか。私自身アルバイトといえど「時給」という響きからの連想もあって、「私の時間を売っている」という感覚は実感としてある。商業だけではなく、労働一般は<私の>なにかを売っているのであり、就労契約書にはその旨が書かれている。労働は契約なのだ。それが歓びであるか、苦痛であるかはまた別次元の話だ。
またしても議論が映像そのもの、映画そのものから逸れてしまった。
この作品の大半を占める会話のシーン、その全てが従来のステロタイプを巧みに避けようとする豊かな創意で満ち溢れている。先に指摘した冒頭の終始後頭部のみのシーンを含め、人物の顔、話者の顔を映すことを巧みに回避しているシーンが何個かある。そして最期にはサイレント風の字幕になったり、会話(娼婦に関する知識)の様子は全く捉えず、画面には終始ナナがせっせと仕事する様子がダイジェストで映し出されたりする。哲学者との対話では、2人の位置関係は全く見えず、同一のフレームに収まることは決して無い(一緒に現場にいなかったのだから当然ではあるが)。会話のシーンだけに注目しても、ゴダールがこの頃いかに新しいスタイルを築いてきたか。スタイルを大事にしてきたかわかる。