(久しぶりの) 今日の発表について

記号学的アプローチを通して、映画、映像に肉薄していく試みは、テーマが大きすぎた故に、守備範囲を広くしすぎたが故に、昨年度あえなく挫折したのだが、それ(映像を記号論的に読み解いていく)を踏まえた上で、今年度は、より私が現在の問題として注目している、あるいは実作上取り組んでいる問題として、映像におけるフィクションとドキュメンタリーの差異(が無いこと)に守備範囲を絞って、取り組むことにした。これはつまりは映画史上の永遠のテーマの一つ、リアリズムの問題にも非常に密接した問題である(ドグマ95前後から現代のリアリズムを追求している、もしくは我々に考えさせる作家の例として、諏訪敦彦ダルデンヌ兄弟ハーモニー・コリン、そしてペドロ・コスタを挙げておこう。そして、それよりも遥か以前、60年代からそれを試みつづけていたゴダールにはただただ感嘆する。もちろんロッセリーニもいるのだが)。とりあえずは去年から引き続き淺沼圭司の『映画のために』を底本とし(これはやはり非常によい本だと思う。これはもちろん記号論の実践の一つとして展開されている本ではあるが、曖昧な美学を排し、科学的な姿勢で映画とはなにかに肉薄していくきっかけの書として皆にお勧めできる)科学的に映像とはどういうものかを分析する。結果として映像にはドキュメンタリーもフィクションも無いということがわかり易すぎるほどに導き出せる。