鈴木清順『刺青一代』日本、1965年 をCHANNEL NECOで視聴

赤い靴という記号が、おもむろに何度もこのフィルムに割り込んでくるが、この「赤」が曲者であるということが、クライマックスで見事に判明する。
弟の建次の非業の死が、我々には喜ばしいことに思えてしまうこの背徳的な感情は、このフィルムにこの役者の立ち居振る舞い、台詞回しがいささか場違いであり(花ノ元寿が悪い役者であるということでは決してない。実相寺のフィルムではなかなかのものだったと思う)、さらには彼にくれてやるには勿体無いような皆の涙によって彼の分不相応なほどの退場のはなむけを共に喜ぶことによって共有されるだろう。なによりもこのフィルム自体が彼の退場を喜んでいることが、この不肖の弟が切り刻まれた刹那、フィルムが赤く染まり、いよいよこのフィルムが長い前戯を終えオーガスムに達しようとしていることを喜びをもって告げるだろう。
赤い靴によって予告されていたその一巻の終わりは、何もかもが堰をきったように暴れ出す。上方から捉えられ、下へ下へと流れて行く立ち回りはすべてを御破算にする力を持っている。それまでとは打って変わって人物の動きが上へ下へ、左へ右へ、奥へと縦横無尽になると同時に周りの風景はどんどん記号化のレヴェルを越えて抽象化されていく。
横移動は素早く鮮やかに、縦移動は緩やかに見据えるように、移動撮影とはこうやるのだということを示している。特に横移動が素晴らしい。ダンビラを受け取り傘を振りかざし雨中を駆ける高橋英樹を追うキャメラは見事で、この横移動は敵陣でも同様のことが起こっていて、彼がこちらに向かっていることを告げる下っ端の映像と双をなし、このフィルムに風雲急を告げるだろう。
かといって、最期に至るまでのフィルムが全然だめかというと無論そんなことはなくて、相変わらず劇中小松方正が「袖触れ合うも、なんとやら〜」というこの「なんとやら〜」がまさしく清順のフィルム作法を端的に表しているような省略のしかた。これは要するに「みなまで云わすな」という感覚でのものであるのだろう。とくに妻の異変に気付いた親方が鮮やかにその唇を奪うシーンの鮮やかなフィルムの運動がそうである。

刺青一代 [VHS]

刺青一代 [VHS]