ショーン・ペン『プレッジ』アメリカ、2001年 をビデオで

近年(とはいうものの断言できてしまうほど数をみていないのでこれは売り文句に過ぎなくなってしまうが)これほどまでに素晴らしいオーヴァーラップをみたことがない、というくらい素晴らしいオープニング。それだけでも十分画になってしまうような鳥たちを捉えた幾つかのカットにジャック・ニコルソンの傷を負った顔とそのうめきが重なる。『11'09''01/セプテンバー11』のショーン・ペン編でのアーネスト・ボーグナインの所作を偏執狂的な美しさで捕らえた分割画面もそうだったが、ショーン・ペンはこういった画面エフェクトの使い方が実に上品で素晴らしい。オーヴァーラップはこれ見よがしにオープニングなどの場面で使うおまけ的なものではなくて、ニコルソンが飛行機に登場するのをよすシーンでタラップの蛇腹がゆっくりと離れて行く場面での使用は、実はオープニングや後半での少女を捕らえたものよりも、一番素晴らしいオーバーラップであった。
無論このオーヴァーラップ、つまり「多重露光」はこの物語の根幹とも深く関わっていて、これは分割場面ではなく多重露光で撮られなければならなかったのである。先述の戦慄すべきオープニングに続いて、最初から物語は多重露光的な様相を呈する。丁寧な平行モンタージュでつなぎあわされる2つの出来事。それ自体は紋切り型の、「刑事の引退」と「いたいけな少女のレイプ死」という吐いて捨てるほどあるものである、「最後の事件」というやつである。しかしこの物語の多重露光ぶりはここから始まる。常に2つないし複数の視点がどちらがメインとなるでもなく、結局真実は闇の中に、表向きはニコルソンに寄り添った物語として進行するだろうが、結局この老いた元刑事の妄想なのか、事実なのか何一つわからぬまま、彼とあの母と娘との関係や、ヤマアラシ、赤いワンピース、ブロンド、年齢、巨人、魔法遣いすべての要素が最後まで多重露光を続けるだろう。
またオープニングからに話は戻ってしまうが、それにしてもジャック・ニコルソンの存在感というのは、例えば近年は力がうせたのかセルフパロディに陥っているかに見えるロバート・デ・ニーロとは全然別の種類の力を持っていて。ニコルソンを主役に据えたこのフィルムがただニコルソンをじっと静かに捉えるだけで、狂気とかそういったよく云われがちなこと以上の、「豪華さ」というべきものを持っている。ジャック・ニコルソンが主演というだけで、このフィルムは豪華である。(かといって『ファイブ・イージー・ピーセス』やミケランジェロ・アントニオーニの『さすらいの二人』などの頃はこういう豪華さを持ってはいない。やはりこの豪華さも「ジャック・ニコルソン」と言う俳優の持つペルソナや文脈の成せる技であることは否定しきれない部分もあるかと思うが、この『プレッジ』というフィルムでの豪華さはそういったものを越えていると思う)