テオ・アンゲロプロス『シテール島への船出』ギリシア/イタリア、1983年 をビデオで

「私だよ」という言葉が時と状況を変えて何度も反復される。ここでの反復のしかたは、まさに小津を想起させるようなものである。「私だよ」という言葉がその都度その帯びた意味を変奏しながらも、何か根の深い強靭さを感じさせる自己主張がどの言葉にも共通して感じられる。ついに「私だよ」と言って帰還する父親がやがて、真正面からの切り返し(!)によって妻と再会する場面は素晴らしい。
アンゲロプロスの画面作りの豊さとは、雑然さと整然さ、混沌と秩序が丁寧にコントロールされていることに尽きると思う、そこに「詩」としか形容できないような時空が画面に立ち現れる。例えば序盤で主人公がラベンダーを売る老人に心を奪われ、後をつけ始める場面での、建物内からの窓越しのシーン。ギリシア彫刻のようなオブジェを抱え歩くスタッフが2人画面を右から左へと早過ぎず遅すぎず通りすぎて行く。無秩序な要素が非常に秩序立てて配置される。いつもの「黄色い雨合羽」達然り。窓の外を自転車で走っている黄色い雨合羽を絶妙にフレームの端で捉えきる。
この作品に限った話ではないが、窓と鏡と言う要素が非常に重要な役割を果たしていて、鏡の中と外、窓の向こうとこちらでは現実の位相が異なっていて、主人公やその家族たちの疎外感のメタファーとして機能している。鏡の中で盛りあがっている人々と、外で佇む主人公、窓の外の風景の中へさまよい出る主人公と、こちら側に残されるキャメラ。この2つの現実が相容れることは結局無かったが、最期に出て来たステージが若干その中間として、曖昧な場として提示されているようにも感じる。