テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』ギリシア/イタリア/フランス/ドイツ、2004年 @OS劇場C・A・P

miro_412005-06-07

最初のシークェンスショット、オデッサを追われたギリシア人難民の一団が、何も無い水を背に幽霊のように歩み寄ってくる。彼らの背後に何も無いのはまさに彼らが、拠所を何ももっていない、ギリシア人でありながら故郷はギリシアではない、ことと色々なものをこの道中で失ったこと(ときには同朋の命も失ったのではないか)を端的に示している。確かにオデッサ「から」逃げて来たという事実はあるものの、このフィルムにおいては彼らはまさにどこでもない場所からやってきた、実際の意味よりも極めて形而上学的で象徴的な難民であるようにも見える。彼らは20世紀の難民の総体であり、それと同時に彼らはそれらに還元され得ない、絶対的に唯一な固有名詞を持った者達でもある。これこそが映画の強みであり、美しさであろう。神話でありながら固有名詞を持ち得ること。何者でもない者ではなく、固有の肉体を持った人がフィルムに定着すること。おそらく永遠と一日あたりからだと思うが、キャメラと人物との距離が近くなってきている。その結果それまではからだの一部に過ぎなくロング=遠視的な視点から叙事詩として映画いてきた物語=歴史が、徐々に俳優の顔は「顔」として捉え、そこにみてとれるのはある事実だけではなく、ある感情である。撮影監督が丁度その頃から世代交代しているということとも関係があるだろうが、そのことによって生まれる変化はことのほか大きい。『ユリシーズの瞳』あたりから(早い人は『こうのとり、たちずさんで』あたりから)アンゲロプロスへの評価が変化してきているのはそれによるもでもあろう。そしてこの『エレニの旅』をみるとそれらは移行期にあったと言うことが出来るだろう(私としてはその「移行期」の作品群も決して嫌いではない)。このフィルムは叙事詩であり抒情詩でもある。抽象的な歴史の物語でもあり、絶対的な個人の魂の物語でもある。
どこでもない場所からやってくる彼らの姿は、その後まさに神話的な人物として振る舞ったこの村の長の葬送の儀において変奏されるだろう。そしてそのとき、水は更なる力を持って画面を満たすだろう。もはや今自分たちがいる場所さえもどこでもない場所であるという感覚。この静かな喪は継ぎの瞬間にやってくるある種のカタルシス、村の水没を当然招くだろう。今実際にいる母なる土地でさえ、結局はどこでもない場所になってしまうのである。そしてこのフィルムの最期において、エレニはまたしても、この水上で最期の一人の喪失を受け、涙を流す。「あなたは彼…。彼はお前…。おまえはあなた…。あなたはあなた……!」彼女は自らその涙をもって水に与する。悲壮な中にも、強さと尊厳がある。この絶望的なラストにおいても、彼女は強くこの先も何とか生きて行くだろうという願いも混じった感情が芽生える。感情に露にする人間をここまでクロースアップして捉えたのはアンゲロプロスのフィルムでは初めて観たかもしれない。叙事詩的な事実よりも、エレニの感情をより大きく捉えた。フィルムにはとりあえずこの瞬間状況よりも、エレニが絶望に打ち震えているということが満たす。大きく俳優の表情を(とはいってもアンゲロプロスのフィルムの中では比較的大きくということであるが)掠めるたびに、一度物語や歴史は括弧に入って、フィルムの今点滅灯があたっている部分が遊離した形で観るものの胸に突き刺さる。
これがトリロジーと予め知っているからというのは否めないものの、ここまでの絶望でありながら、なにか終末ではない強さを水の上で虚空を仰ぐ彼女の姿からはこれが最期ではないというかすかな希望のようなものが「地に降る涙」という詩と共に湧きあがる。
それは、ギリシア悲劇を初めてしてある種の悲惨さに美を感じ取ってしまう資質もあろうし、ひとえにアンゲロプロスの詩情に尽きるということもあろう。さらにはこのフィルムが終始絶望を描いているからでは決して無いということもあるだろう。例えばどちらもバンドが絡んでくるシーンだが、「音楽の溜まり場」に初めて訪れた際のまるで駆け落ちして来た彼女達を結婚式のように祝福するバンドマンたち、また水没した村から逃れて来た後の「白布の丘」でのシーンでも次々に現れるバンドマンたち。これらの幸福な瞬間は形式的に見て、やがて来る悲劇への序奏に過ぎないのかもしれない。実際これらのシーンが輝けば輝くほど、悲劇も異なった色で輝く。単純に作劇の作法として見て、巧みに物語のバランスを配分しているということあるが、それだけでは語り尽くせない。フィルムの前では幸福も絶望も等価に映し出される。感情のベクトルは方向は違えど絶対値は変わらないというフィルム的な残酷さを美しいと観てしまう業のようなものかもしれない。
映画を面白いと感じてしまうことを原罪の一つに加えよう。
アンゲロプロスの新作に対して、そのフィルムそのものについて語るように勤めたが、はたしてそれが出来ているであろうか。結局はアンゲロプロスのフィルムに「感動」して盲目になった自分を描写しているのに過ぎないのかもしれない。
最近「映画」をどう語れば良いのかいよいよ分からなくなってきた。