(されど高貴な、否「だからこそ」高貴な)戯言

最近いつになく(浪人時代の頃以来位の)速いペースで、本を読んでいる。というか、早く読めるような「小説」であったり、「新書」であるからなのであもあるが。休憩中に残り時間と格闘しながらページを繰り、「寝る前にちょっと」と思いつつ数時間読んでしまう。
ま、これはどうでもよい導入部としておいておくとして。
つい今しがた、

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

を読了。今頭がぐるぐる回っている。言葉が走っている。「好きな哲学者」などという暴力的で貧相で迂闊なカテゴリーからニーチェをはずさなければならないと、深く反省。
「超人」には遥かに及ばない、ひどく不徹底なニヒリストであり、ひどく中途半端にルサンチマンを持つ私は、こうして以下に駄文を叩きつける始末。
これはニーチェ批判でも、感想でもなく、かといって永井均の『これがニーチェだ』へのそれらでもなく、それを読んだことによって、ただ湧きあがってくる言葉の洪水を夢日記をつけるような感覚で、恥を捨てて書きとめなければならないと考えただけのことである。
数年ぶりに「ルサンチマン」だとかいったニーチェの用語を用いた論考を読んで、まずその数年の内に、自分自身が幾分かルサンチマン的な要素を貯めこんでいることに気付かされ、今自分が駱駝の段階だとか、獅子の段階だとか(私は獅子座である!)そういう位置付けを試み(例えば自分の作品が評価されなかったりしたことを「あのブドウは酸っぱいや」的に捉えたり、自分を「偉く」見せようと振る舞ったり、人を内心馬鹿にしてみたり…といった反省)、もっと精進しなければならないなと思い、そもそもその「精進」という上昇志向的考え方自体が、ルサンチマン的なのだと堂々巡りに陥るのを別のことを考えることによって回避している自分にいまここまでタイプした時点で気付く。
無論、何を考えるにしても「映画」をモデルにしてしまう癖を持っている私は、この本を読みながらでも、ふぅっとこれから撮るべき映画を夢想する。
・愚直なまでに率直に映画についての映画を撮らなくてはならない。
ゴダールのように映画を撮っている人間や、自分自身を登場させるのも有効な手であろうが、他の手もあるに違いない。
・私は、時代や歴史に疎い方で、興味も少ない方だ。が、これが良いことなのか悪いことなのか、今の時点で本質的なに判断しかねる。もし、そうでなくなったときの判断は既に今の私のものではないから。
・一番大切なのは方法論である。
・一番大切なのは「何を」撮るかである。
・前の二項は全く矛盾していない。
・「優れた」作品だけでなく。「作品」だけでなく、すべての「もの」と「こと」は、「事柄自体」は形式と内容に分けられるようなものではない。それは同一のものである。
・すべての言説は、すべての映画批評は嘘である
・だから、あの儚くも美しき結びつき、シニフィアンシニフィエの結びつきも、そのような二項対立自体嘘である。
・そして「映像」が何なのか、「私にとって」ではなく、ただ映像は何であるか、問わなくてはならない。
キャメラという機械がそこに介在していることは幸福なことである。
・フィルムとDVどちらでもよいではないか。そういった美学からは遠く離れるべきである。
・かといってフィルムとDVどちらでも同じものが作れるわけではない。
・言葉に対する映像の優位を唱える訳ではない。が、この宣言自体がルサンチマン的である。
多くの人(つまり私より頭のいい人)が既に考えて来ているであろうことを、そういう人たちにとっては当たり前のことであろうことを、恥ずかしげもなくアップ。(しかしこの一文にもなにか、いやらしものを感じてしまう(という一文にも…(以下同様)))
上記の文章は何か論じたいのではなく、後になって自分がどういう言葉をこの時、繰っていたかを確認するための記録である。この文章が何らかの出発点になれば。
あとは「この内容を登録する」をクリックするだけだ。
ちなみに他には
阿部和重の文庫や
心理

心理

を読んでいる。これは詩人である先輩が今教えを受けている人のもので、これを読んでちょっと落ち込んでいるというので買ってみた。まだ最初の一篇しか読んでないが、凄い。詩を語る言葉を持ち合わせていないので、「凄い」などという半ば貶し文句のような言葉しか今は当てられない。ただ、今この凄さについて語らないと言っているだけだが。またの機会に。