ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』アメリカ/フランス/ドイツ/日本、1999年 をビデオで

確かに、「葉隠」を始めとする「日本文化」への曲解はある。というよりもゴースト・ドッグが「理解」しようとしているその姿さえ、微笑ましくもあるくらいで、理解ではなく感じ取ることであり、語ることではなく沈黙、示しであるということを、私がことさらに「日本人」として指摘することもまた同じくらい馬鹿なことであるだろう。
そのような指摘は、このフィルムの豊かさを見落とすだけである。ヴィム・ヴェンダースの『東京画』の苦笑したくなるような考察を唾棄しては、そこに映っている未知なる風景を、あたかもそのイマージュの真の主人にでもなったかのような粗暴さで無視、あるいは黙殺、つまり見たいものしか見ない/見えないという態度で臨むと、その映像そのものが見えなくなってしまうのとほぼ同様であろう。
かといって、異人から見た未知なるパースペクティブを好奇の目で愛でると言うのともまた違う。そんなことよりもこのフィルムに流れるジャームッシュ的時空というある種の絶対の中で、無為なる思考を誘発させる「葉隠」の文言をそれはそれとして受け流し、思考によって「見ること」を中断しないことが実は要求されているように思う。これはゴダールの映画に関しても、すべての映画に対して要求される態度ではないだろうか。常に記号とその意味を探りながら「物語」としてのフィルムを追う一方で、私は今一体何を見ているのかを自覚する姿勢。このような映画の見かたこそが、実は世界に対する見かたであると示してくれる。ある種のよい映画監督はこの両者を二項対立させることなく、見事に止揚する。
さて、「サムライ的」なる身のこなしを志向しているゴースト・ドッグは、必ずしも速度という意味での早さを志向していない。ひたすらシンプルさを志向していて、それは映像にも表れている。例えば『北斗の拳』のレイやトキの動きを示すような「ゆらり」という擬音がぴったりはまる。しかし、「華麗」とは少し違う。あくまでもシンプルである。要所要所に使用されるオーヴァラップ気味に捉えられた一連の動作は、ゴースト(幽霊)のように動くことの表現であると共に、シンプルさも表現している。「ゆらり」と数コマ分動きは進んでいるのだが、その「ゆらり」の間の動きは存在しないのではない。1秒24コマのコマとコマの間に動きが存在しないわけでは無いように、動きは存在する。ある種アニメーション的な動きの省略である。ちょうど劇中で何度もカートゥーン・アニメ、いわゆるリミテッド・アニメが登場するのもただの趣味志向ではないように思われる。
そう考えるといかにも良く出来ている虚構空間の中で、ゴースト・ドッグ自身ははもう1歩進んだ段階でフィクションであるといえるだろう。マフィアのボス等がじっとアニメを見ているそのアニメと同じレヴェルにゴースト・ドッグもまた存在している。だからこそ主とゴースト・ドッグをかつて惹き合わせたエピソードそれぞれ微妙に違っている(具体的に言うとチンピラが誰に銃を向けていたか、ゴースト・ドッグか、主か)という『藪の中』的なものであるのだ。
ジャームッシュの「心地よい」リズムについて考えるのを忘れていた。またの機会に。

ゴースト・ドッグ [DVD]

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