筒井武文『オーバードライヴ』日本、2004年 をビデオで

「倉内宗之助」なる人物は、この物語では敵役として、いかめしい隈取を施し、いかにも魔の者という感じで、演出されているのだが、それでもこのフィルムの中で一番慎ましくも美しく輝いていた。
たとえばキスシーンは、それをそれぞれの役と、役者本人との境が透けて見えるという意味(実際にそうかはともかくとして、フィルム上では我々はそれを感じる)で、最も映画的であると言われていたと思うが、演奏という技を披露することもそれに近いものがあると思う。
「演技」も技であるが、歌やこの三味線の演奏とは全く異なるものであることがこのフィルムで示されている。歌がうまい演技や演奏が上手な演技というものはあり得ないのではないか。うまければそれはもう実際にうまいのであって、それは演技を超えている。逆に演技ではなくて実際に達者な者がこの物語空間に放りこまれたとして、容易に相容れるものではい。なかなかウェルメイドにフィルムの中に組みこまれてはいるし、上記のようなことを無視してもまぁまぁ見れるものではあるだろう。
だが、宗之助のこのフィルムに抗うようなまなざしが無ければ、このフィルムには(私にとって)何の魅力も無い。これは事後的な情報なので余談に過ぎぬが、観ている最中から(もしかしたらそうかな)と思って、観終わってすぐに調べたらやはり津軽三味線の有名な奏者のようで、主人公之ライバル大石もその子であるとのこと。その事実は括弧にいれておくとしても、私がフィルムから受け取った情報のみを鑑みても、このフィルムで三味線を弾く姿を披露しているもの達はどれもこのフィルムにささやかに抗っているようで素晴らしい。特にまなざしが素晴らしい。
だから、最初の指摘に戻ると、宗之助は物語上「魔」の属性を帯び、隈取まで施していながらも、その目の力は彼が決して「魔」でないことを示している。このような者が、(実際バンド活動もやっていたと記憶している柏原収史扮する)この主人公などに圧倒されることはありえないことは明白である。これは映像から分かることである。
ところで、無我の境地に達して魂で音を奏でるに至った、その曲が「ミザルー」っていうのは、この映画最大のギャグだよなぁ。