アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』ロシア/イタリア/フランス/スイス、2005年 @銀座シネパトス

確かに面白い。しかしその面白さはこのフィルム(と、いうより監督であるソクーロフ)が表象せんとしていることとは乖離しているような気がする。
このフィルムの豊かさとは例えば、イッセー尾形の仕草の機微であったり、ラストの桃井かおりの表情、特に目のやり方、その後の「人間になった」夫の手を引き子供たちの下へと急ぐショットであったり、タンチョウヅルと戯れるGHQのショットだったりするのだが、これが素晴らしいのは歴史的事実に基づいているからであるとか、劇的に再現ないし想像=創造しているからであるのではなくて、今そこに映し出されているあくまでも「今そこ」であるというフィルムの体質によってのみ成立するものであり、これはSFがあくまでも「未来」ではなく「今ここ」をしか表象できないというのと同様に「過去」もまた「今ここ」として現前せしめてしまう、そうすることしか出来ないというフィルムの持つ豊かな宿命を決定的に示す結果となっている。結局ヒロヒトのドラマが素晴らしいのではなく、現在目の前にいる事物が素晴らしいのである。
真に豊かな映画は過去の歴史など語らない、今の歴史をのみ堂々と語るのである。