ロベルト・ロッセリーニ『ドイツ零年』イタリア、1948年 をビデオで

切迫した「今」があるからこそ撮り得る、あるいは撮らなければならないものが映画であろう。
冒頭の廃墟と化した街並みに被さるオープニングクレジット。この凄まじさ、ただならぬさはトリュフォーの『大人は判ってくれない』をしのぐ素晴らしく、凄まじいオープニングである。
この悲惨な物語と絶望的な状況からみて場違いなほど、エドムント少年は美しい(逆説的にドラマとしてはこの美しさは必然化も知れぬ)。お稚児を斡旋していると思しい元教師もその点は見る目がなかったといえる。それならば、どちらの物語が悲惨かはおいておいて、エドムントは死ぬことはなかったのかもしれない。
この大人びた、早熟で、美しい少年は、すべてを捨てる決心をもう既にしていたのであろう。父を「始末」したあと、元先生にも裏切られ、そこではじめて遊ぶ。しかし、青年達からは子供とはじかれ、同年代の子供たちにも当然その美しさのかどで疎外されているので、一人で遊ぶ。自らの影をピストルに見たてた瓦礫で「パン、パン」と撃つ遊戯のえもいわれなさよ。

ドイツ零年 [DVD]

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