園子温『紀子の食卓』日本、2006年 @K's CINEMA

よくないと思った『自殺サークル』だったが、観ておいてよかった。あの主題をさらに深めて、映画としても成功している。
スクリーンに映し出される、食卓を囲む家族の風景。食事に手をつけようとしない姉。ステロタイプな家族のイメージがそれでも悪くない演出で切り取られている。やがてこの姉は家出をすることは冒頭で既に語られている。この食卓を囲む人々が「本物の」家族ではないことを我々は知っている。役者によって演じられた家族。既にここからこのフィルムの仕掛けは発動しているのだ。終盤での「再現された」家族、自殺した母親に取って代わったつぐみが加わっているが、だからどうしたというのだ。ここで問題になるのは演技の質ではなく、文脈でもなく、「今ここにある」映像である。「俳優」という職業や、「演技」という幻をさらりと、多少の血なまぐささを交えながらこのフィルムは付きぬける。何層にも張り巡らされたバイアス、文脈によって、逆に目の前で起こっておることそのものへと目が向く。
素晴らしいラストシーン、この「家族」を飛び出す妹のモノローグ、「ヨーコ」でも「ユカ」でもない、「名付けようのない私」をフィルムは実は最初から捉えていたのだ。この妹だけでなく、このフィルムに焼き付けられている全員のそのような「名付けようのない」ものをしっかりと刻み付けていた。と、いうか映画にはそうすることしか出来ない。「演技」は映らない。「あなたはあなたの関係者ですか?」という存在論的問いは、かくして映画的な一つの回答を提出することになる。
押井守が『イノセンス』で試したことと似ているかもしれない。人形と画と人との層で織り成され、それらすべてものとして等価に扱ったあのフィルムと、このフィルムの文脈上の演技の位相の層によって逆説に「(表象としての)そのひとそのもの」を捉えるフィルム。やはりキャメラは凶暴だ。