ブライアン・デ・パルマ『ブラック・ダリア』アメリカ、2006年 @新宿アカデミー劇場

やはり「アメリカ映画」を観るのは楽しい。
デ・パルマの手癖に一度参ってしまったものは、もうそこから出てくることは出来ない。螺旋階段から、相棒が落下するに至るまでのすべてのシークェンスが素晴らしいというのは、もうほとんど「アメリカ映画」は素晴らしいというのとほとんど同じ意味にすら思えてしまう(無論過言であることは分かっているが、観たときにはやはりテンションが上がってしまい、にわかにそう思ってしまうものだから困ったものだ)。例えばまさにフィルムのエモーションの発露そのものであるスローモーション(故に使い方を誤ると惨めで悲惨になる)が件の落下シーンで使われているのを目撃すると、ため息をつくしかない。デ・パルマは間違ってもアルドリッチやペキンパー、そして黒沢清のようにバタンと人を落下させてはならないのだ。どちらを選ぶかはもう自らの存在を賭けた倫理的選択である。何の気なしに撮るとそこにあるのは惨めさだけであろう。
これも「アメリカ映画」の伝統なのだろうか主人公の男はひたすら目撃者に徹するのみで、結局のところなにもしていない。そのなにもしてなさが素晴らしく、ジョシュ・ハートネットは素晴らしい。劇中で「まだ誰も撃っていない」(その後一人だけ撃つのだが)と述べているとおりである。ハワード・ホークスの『三つ数えろ』のボギーもそうだったし、ロバート・アルドリッチキッスで殺せ』もそう、ティム・バートンの『バットマン・リターンズ』もそうだった。数え上げると結構出てくるのではないだろうか。特に「フィルムノワール」と呼ばれるものに多いかもしれない。
序盤での生きている「ブラックダリア」が唯一出てくるシーン、クレーンに依る移動撮影はデ・パルマの映画を観ているのだから、もう分かっているのだが、あの画面の引き具合、移動のタイミング、美しい。
もう一つクレーン撮影、オープニングのボクシング試合前からフラッシュバックして暴動シーン。この暴動シーンも素晴らしい。夜の街頭の移動撮影は、オーソン・ウェルズの『黒い罠』の冒頭のワンショットを思わせると同時にサミュエル・フラーの『ストリート・オブ・ノー・リターン』の冒頭の暴動も思い出した。
なんというか、当時の映画『笑ふ男』やスクリーンテストの映像はもとより、そこかしこにリスペクトというべきか記号がちりばめられていて、一種良質のメタルのような感覚である。