クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』アメリカ、2006年 @新宿ミラノ1

やはり、クリント・イーストウッドは極めて倫理的な監督である。
イーストウッドの映画は確かにどれもすばらしいのだが、イーストウッドの映画を観ているという感じがない。分りやすいような意味で「イーストウッド映画」なるものは存在しないのではないかと思う。それぞれの作品がそれぞれに並立しているような印象を受ける。イーストウッドとはどのような作品を撮る監督かという質問に即座に答えることが出来ないのだが(「傷」、あるいは「聖痕」など指摘も確かにあるがその例外も多々あると思う、この作品もそうだ、戦場で足を負傷しエンドクレジットの当時の実際の写真では松葉杖をついているドクが本編ではナレーションで一応はツアーが終わるまで手術できなかったと述べているものの怪我をしていないかのように振る舞っている。主題は全くそこにはないのである)、数々の作品は屹立している。作品を観るたびにどういう監督なのかよく分からなくなるのがイーストウッドである。
概論はこのくらいにしておこう。
何度もフィルムの中でこだまする「衛生兵!」と呼ぶ声。フィルムの序盤、山の頂に登って行く3人。爆発音がこだまする。キャメラが上へ、ぐん、とむかい、頂の向こうが見えた瞬間、花火と人々との煌びやかな光景、晴れやかなシーンに消し難い戦場の記憶が呼応する。何と素晴らしいショットなんだと思っていたら、当然後に同じシーンが登場するだろう。
この作り物の頂きに上っているときにもこだまする声、「衛生兵!」。このフィルムはこの呼び声に引き戻されるかのように、様々な時点から戦場を回想する、というよりは逃げきれずに付きまとってくるという感じで挿入されていく。「フラッシュバック」という表現技法の字義通り、まさに正しいフラッシュバックである。レトリックではなく、この物語にはこの形式が必要であるから。イーストウッドはいつも倫理的である(倫理的であるという点はすべての作品に共通している)。
制作のスティーブン・スピルバーグの『プライベート・ライアン』はもちろんのこと、近作の『宇宙戦争』や『ミュンヘン』もそうだったように、映画とは戦争や殺戮を抑止するのには正しく機能することはない(正しく機能したとすれば、映画としては正しくない)。戦争映画他において戦闘シーン、銃撃シーン、暴力シーン、殺戮シーン、スプラッター、はやはり目玉であるし、見世物であるし、面白いものである(『許されざる者』もやはりそうだった)。よい監督が撮れば面白いのは当然である、が、面白くてよいのかという倫理も当然産まれるだろう。吉田喜重的な表象不可能性を追求しないのであれば、その面白さも含めてひきうけるしかないのだろうか。とまれ、この映画決して戦争の悲惨さや反戦を唄ったものではなく、分りやすいレヴェルでも、これは『ミュンヘン』のラストのような意味でアメリカ批判であろう。かく言うイーストウッド自身も政治家でもある、と言うのがますますイーストウッドと言う人物が見えづらくなる。が、彼の作ったたようなフィルムだけを信用することにしなければどうしようもない。
それにしても素晴らしいラストシーン、旗を揚げた後、兵士たちは海水浴を許可される(決して狂気のサーフィンではない!)この戦場でのフィクションのような風景、しかしカットが変ってキャメラが引き、ゆっくりと上方へ注意を向けるとそこにはやはり無数の軍艦がある。この素晴らしいショットは無論あの、張りぼての頂とその向こうの花火と群集のショットの切り返しである。このフィルムにおいて、結局のところ戦場とそうでないところの区別はなかったのだ。