侯孝賢(ホウ・シャオシエン)『百年恋歌』台湾、2005年 @シネスイッチ銀座

この場でも何度も指摘していることだし、ごく常識的なことなのだが、やはり映画はファーストショットで決まる。
静かにスタッフクレジットが流れたあとの長いファーストショット。これだけでもう泣けてしまった。やられた、というやつである。ビリヤード場を会話をするわけでもなく、淡々とゲームする男たちと、それを見詰める女。この女性スー・チーキャメラの緩やかな動きの中心に捉えながらも、決して落ち着きがないわけでもなく、オールディーズにのせてまさに夢の様に彷徨う。このファーストカットを観て何とも思はない者は、もう映画を観なくても良いんじゃないか、世の中他にもすばらしいものはあることだし、とすら思ってしまうような、本当に素晴らしいファーストショット。このファーストショットのリズムに引きずられる様に、第一幕「恋愛夢」は静かな、かといって決して静止はしていないような心地で、進む。ラストただ手を繋ぐだけという「瑞々しい」としか形容のしようのないショットがここまでも凄まじく感涙を誘うほどに決まってしまう。
そして驚きの第二幕「自由夢」。サイレント形式で繰り広げられる。前情報をし入れていなかったので本当に驚いたし、嬉しかった。劇伴として歌が流れながら20世紀初頭清朝時代のドラマが繰り広げられる。ところが何シーンだったろうか、部屋で楽器を爪弾きながら歌っている女性とその歌がリップシンクしている。後半にも1回、計2回そういうショットがあった。ただのノスタルジーとしてのサイレントではなくれっきとした現代の表現として成立している。最期に辛亥革命が起こりその後のシーン等は、急に環境音が入り出し、新入りの娘に歌を教えているショットは同録になり、この辛亥革命を契機としてトーキーになってこの幕は降りるのと思いきや、そうはならなかった。あくまでも「歌」を特権的な位置においているのだ。第一幕は手を取り合うことで終幕したが、ここでは娼婦と客との関係であるにもかかわらず(フィルムの上では)手を触れることなく終幕する。
終幕である第三幕、「青春夢」。現代である。やはりファーストカット、二人乗りのバイクを追いかけるショットが素晴らしい。最初からしっかり体を寄せ合う男女は序盤からいきなり(比較的)濃厚なラブシーンを展開するだろう。幾らでもロマンティックで夢のような映像を描けることをフィルモグラフィでも、前の二幕でも示している侯考賢はここでやはり今はこうするのだ。と宣言している。やはりここでも現代の若者の観察記録のような生態を描写している。しかし、三幕目まで順に観て行くと、語りの形式や内容こそバラエティに富んでいるもののこの共通した二人の男女を見詰める視線には共通する距離感が感じられる。
形式と内容の不可分な婚姻関係をまるで教科書の様に示した作品である。そしてこの教科書の最終章は厳しい。甘美な夢を造作もなく紡ぎ出せる作家はそれでは現代にある意味がないとでもいうかのように終章で今の自らの立ち位置を改めて分りやすいかたちで示したのである。