イングマール・ベルイマン『不良少女モニカ』スウェーデン、1953年 をビデオで

こういうフィルムを観ると、やはり美しさとは壊されるためにある、壊れてこそその美しさは儚さとして昇華されるものであると思う。
中盤の美しき水辺の日々が長く続くわけがないことは、明白で(余談だが、私はいつボートの燃料が切れるのだろうかと気が気でなかった)これは小津安二郎の例えば『父ありき』における流し釣り(蓮實重彦)と一緒である。
鏡のショットに始まり鏡のショットに終わるこの作品は(コッポラの『ペギー・スーの結婚』は同じである)言わずもがなの水、など透明なものが印象的に用いられている。鏡や水などは元来極めて映画的なモチーフなのだが、特にこのフィルムの中で強く印象に残ったのは、グラスを捉えたショットである。ハリーが仕事を辞めることを決意したシーン。画面の手前には大きさも不揃いの、しかし構図としてバランスがきまっている4つのグラスが配置されている(その後画面は左にパンしてもう1つグラスは映る)。もうこのグラスは華々し破壊されるしかないだろうと思って注目していると、見事な演出でもって、それがやはり遂行される。辞めるといった後その仕事場に一人になった彼は、おもむろにそのグラスの1つを掴み取り、奥の壁に投げつけようとする、が、思いととまる。と、また別の1つを指で細かく前に押しやりグラスを落とし画面から退場させる。するとグラスの割れる音がする。ここの演出が素晴らしくて、引きこまれた。
しかし、モニカという人物の凄さよ。彼女は当初ただ純粋なだけで、ひたすら自由を希求するアイデアルな人物かと思いきや、かたや野生のリアルさをも兼ね備えている(肉を盗んだ後の疾走を観よ!)。彼女はしきりに自分だけが不幸だというが、それは何が原因なのだろうか、社会か、家庭か、それとも自分自身か、おそらくそのすべてが複雑に絡まりあって、ただひたすら街から遠ざかろうとする。彼女はあの一夏の逃避行が、本当に永遠に続くと信じていたのであろうか。アウトローが充足した幸せを自らの力のみで勝ち取るのは容易ではない。
最期醜くなったと呟いた彼女が、その前に浮気現場で見せたこのフィルムで一番美しく恐ろしい顔は、本性と取るべきか、身につけた処世術と取るべきか。
後になっては、ハリーのように鏡を見詰め、あの頃は良かったと述懐するしかないのか。
自由の不可能性と美しさ、儚さとの両極を体現している。