クリント・イーストウッド『硫黄島からの手紙』アメリカ、2006年 @新宿ミラノ1

この「硫黄島2部作」は、もはや言うまでもなく、誰の目からも明らかなように、2つフィルムの切り返しである。単純にアメリカと日本の切り返しである、と言えるが、もちろんそれだけではない。フィルムにはいかなるアメリカ人も、いかなる日本人も映っていない。ただの人間が映っている。異なる位置から切り返しているが、それは人種やイデオロギーに基づくものではない。「偶々」。そう言ってしまっても良い。
例えば1作目の『父親たちの星条旗』では人物一人一人にキャメラは極端には寄らなかった。あれはシステムを捉えようとしたフィルムだろう。システムによって浮きあがる、名も無き「個」。それに対してこの『硫黄島からの手紙』においてはそのシステムと個へのキャメラの寄り方がちょうど逆である。1作目はフィルム全体の構造や組み立て方をとおして硫黄島を俯瞰しようとしていた。だから印象に残るのは名も無き兵士たちの半ば抽象化された「運動」である。今作はどうかというと、二宮和也(本当に素晴らしい!)の顔面しか覚えていないといっても過言ではない程、個々の人物を捉えようとしている。物語以上に、エモーショナルな表情をたっぷりと使っていると言う印象だ。
物語として、二宮演ずるところの西郷のキャラクターに説得力が無いのではないかとは思うのだが、それを補って余りある、彼の存在感が、父親には一見みえない彼の風貌でも、つまり設定だけを見るとミスキャストではないかと思えても、もはや二宮和也以外にこのフィルムのこの位置に姿を映して良いのは彼だけであると断言するしかない。クレジットが終り、プロローグが終わり、実質上のファーストショットが、彼の顔面のクロースアップから徐々に画が引いてゆくものであったと言う事実。これに嘆息した。最初のシーンで墓穴を掘っていた彼がただ一人生き残る。最期まで他人の墓穴を掘りつづける。このフィルムは彼が穴を掘っているショットに始まり、穴を掘っているショットに終わる。(ナラティブな解釈をするとあそこで自分自身も葬り去り、残った狂気が米兵にスコップを振り回させていると言うことも可能だろうが。)このあまりに人間的で、このあまりに現代的な彼がただ一人生き残るであろうことは、そのファーストショットから既に私は勘付いていたのだろう。ただお国のために戦死するというにはいささか場違いな若者であった。ただ一人生き残った彼が日の当った海をみてにやりと笑うカットが凄まじい。