賈樟柯(ジャ・ジャンクー)『長江哀歌』中国、2006年 @シャンテシネ2

いい意味なのか悪い意味なのか、よく分からないのだが、ジャ・ジャンクー作品の看板、常連女優のチャオ・タオの、俳優としての佇まいがすばらしい。堂に入りすぎていて少し浮いていると言ってもよい。もちろんその浮き方はストーリーとマッチングしているのだが。ただ引っかかるのである。質が違う。同じシークェンスに登場するワン・ホンウェイも同様だが、やはりチャオ・タオの佇まいはなにか別格で凛とした清潔感のある美しさが、彼女の映っているすべてのショットを引き締めていて(前で手をそろえて立っているだけで、違うのだ)、そのほかのシーンの雑多さと、三峡の風景(「山水画的」なものも解体されゆく街も合わせて)の持つ、監督本人の言葉を借りれば「静物」の美しさと異質に光っている(逆にハン・サンミンの佇まいの「自然さ」も凄い、彼を素人というのはやはり違うと思う、だから、ジャ・ジャンクーの作品を見ると素人だとか俳優だとかいう区分よりももっと深いレヴェルで出演者を選び、演出しているのだろうとおもう)。
このキラキラとした、取り壊し現場を見ていると、嫌でもペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』を思い出してしまうのだが、それよりももっと人が映っている。ここには何かを括弧に入れるかたちで肉体労働の美しい部分が躍動していて、労働者たちがハンマーを振り下ろし奏でるリズムがその歓びの部分をうたっている。再会したハン・サンミン夫婦の背景で光りを帯びるブロックと、それよりもっと背後で厳かに崩れるビルの美しさは、そんな瓦礫の下敷きになってあっさり死んだあの、チョウ・ユンファ好きの青年の死をもある種の美しさの中へと編入させる。
UFO。あのUFOは何なのであろうか。いや、意味は分かるのだ。全く出会っていない二人の登場人物を「奇跡的」に繋ごうという意思であり、(絶対的、本質的な部分ではないにしろ、何らかのスパイスのようなものとして)ファンタジーを何のことはないほんの少しのCGIで導入出来ることを示しているものであろう。だがどうしても、そんなことをしなくても、視線のリレーだけでも、いや、そのようなアクション無しでも繋がるじゃないか、と思ってしまう。