デイヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』アメリカ、2006年 @恵比寿ガーデンシネマ1

凄く面白かった、興奮した。と、まず記録しておかなくてはなるまい。もうこれは本当に、ゴダールにおける『映画史』くらいのリンチの代表作というか結晶というか、今まで観てきた、リンチのリンチ的なるもののオンパレードで、それでいてそれが亜流、劣化コピー、拡大再生産になど全くなっていなくて、自宅ラボで、まさしく何年もかけて純粋培養、抽出、発酵、蒸留を重ねたものである。純度が極めて高い。ハードコア・リンチである。
まぁ、興奮の弁はこの程度にしておいて。
エモーションの処理が尋常ではないのだ。登場人物の異様なほどのクロースアップが目立つ。顔の表情の凄さはこれまでのリンチ作品でも嫌というほど味わってきた。どうということはない場面でも、意味を勝手に想像してしまうような表情がいつも演出されてきて、それが結局ストーリーなどという枠組みの中では全く無視され回収されないが故に余計にその宙吊りにされた存在感が後になってから漂ってくるのだった。今作での極端なクロースアップによって、まず一個の表情の時点でそのエモーションの発露たる顔面が異化されているのだが、今作においてそれは今までよりも速効で存在感を示してくるのだ。もう最初からコンテクストから逸脱している、というか最初からコンテクストの存在しない、ただの、純粋なエモーションが次々にスクリーンに現れる。これは凄まじい。最序盤でローラ・ダーンの邸宅に近所に引っ越して来たという老婆が挨拶に来るシーン、もうこの老婆の佇まいからして、リンチの映画が序盤からフルスロットルだという感じなのだが、老婆の顔とローラ・ダーンの顔との切り返しが凄まじい。この場面でのこの思わせぶりな感じというか、これは伏線だよ、と伏線など存在しないことをとっくに受け入れているはずなのに、何かがこのあと起こる、あるいは何かが起きていたと強く強く予感させるその演出は見事なのだが、その上で、そのような語りをコンテクストから遠く離れたところに放り出しているところが一番の凄さだといえよう(だから、一度リンチの作品の自分なりの観方、理解のし方、いや、楽しみ方というのが一番いいだろうか、を会得すればこれほど楽に観れるものはないのかもしれない)。
とはいうものの全くの出鱈目が続く訳ではなく、所々関連性があるかのように演出編集されていたり、やはりリンチという人格とその統覚によって、何らかの整合性があるのではないかと思わせるところが、リンチが精神分析の方法で論じられる格好の対象になる所以であるばかりではなく、映画という時間芸術の形式が持つ、あらゆる断片を物語化してしまう強権的な力そのものなのかもしれない。
やはりある統覚によって支配されているのだろう、ということを、よく良い映画を観た後の帰り道で感じるアレ、風景が変容してくるというアレ、ガーデンプレイスの風景がリンチ的に見えてくるという現象によって思うのだった。それどころか、この今私が生きている世界の法則にまで疑義が及んでくる、本当に行きと同じようにこの道を引き返せば、恵比寿駅にたどり着くのだろうか、つまり今までは確かに林檎は下(鉛直方向、地球の中心)に向って「落ちて」いたが、次も本当に落ちるのだろうか、というところまで及んでいくのだった。
ディテールの描写が執拗で見事であるが故に、その強度故に、どんどん宙に浮いてくる。それは天賦の才などというロマンティックなものではなく、ただただ技術があるのだのいうことに、本当に素晴らしく昂揚感のあるエンディングでのこぎりを引く男の顔を観て、今更ながらに気付くのだった。あののこぎりを引く男の顔がもっともリンチ的な顔だけを抽出したものなのかもしれない。