「映画は言語体系を持たない言語活動である」(クリスチャン・メッツ)
- メルロ=ポンティ『意味と無意味』より
知覚→
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- 「さまざまな形態の体系」
- →「知覚において第一のものは、並列された諸要素ではなく全体なのだ」
- 「さまざまな形態の体系」
- クリスチャン・メッツ『映画――言語体系か?言語活動か?』より
「映画とはなににもまして”現象学的”な芸術であり、その記号内容の全体と同じ広がりを持った記号表現であり、かくして本来の意味での記号を短絡させることで、それ自体において自らを意味付けるスペクタクルである。」
「言語体系から脱落するものが言語活動を豊かにする。」
- 浅沼圭司『映画のために Ⅰ』より
- 言語の定義
- コアン=セアの場合
- 言語の定義
個体間の情報の交換(l'echange de communications)に役立ちうる慣習的な記号(signes convenus)の体系
→映画とは対立的なものである
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- ミトリの場合
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言語とは表現の手段であり、その力動的な性質は何らかの記号、映像、音のシステムの時間的展開を前提としている。このシステムの構成は観念、情緒などを表現し、あるいは意味することを目的とする。
→映画は狭義の言語(langage verbal)と同様に(広義の)言語の一つである。
いうまでもないと思うが、もちろん私は後者のミトリを指示する。というか、ミトリの定義は前者のコアン=セアによる言語の定義を包括するものである。
しかし同時に、やはり、映画という媒体にコミュニケーション能力がないということに変わりはない。それは、映画言語が肉体から直接的に発せられる種類の言語ではないからだろう。
もう一つミトリの言葉
映画は言語におけるような記号をいささかも持たない。映像はそれ自体記号ではなく、また何ものかの記号でもない。映像は意味するのではなく、提示する(montrer)のみである。
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(このあたりに私の論をウィトゲンシュタインの方法と結び付けてくれる何かがあるかもしれない。)