「映画における意味作用は「記号を欠いた意味作用」(significations sans signes)である。」(ミトリ)
●用語の規定
映画は
- 独特な論弁のための道具(instrument d'une diakectique particuliere)
- この道具を使用する技法(l'art d'utilser)
- かつその結果を伝播するための手段(le moyen de diffuser)
という、三つの性格を同時に持つ。
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にもかかわらず、この三つの意味が「映画」(le cinema)というただ一つの語によって意味されざる得ないのは好ましくない。
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そこで、
- にあたる言語(le verbe)に対応するものを「動く映像」(l'image animee)
- にあたる文学(la litterature)に対応するものを「フィルム的事実」
- にあたる印刷(l'imprimerie)に対応するものを「シネマ的事実」
と呼ぶことをミトリが提案している。
私はこれに大いに共感する。私自身さまざまな様相を内包している「映画」という言葉の意味が多様過ぎて、その使用が面倒なので、書く側にも読む側にも混乱を生じさせると思っていた。(そもそも日本語ではフランス語で言うところの"film"と"cinema"をも明確に区別する言葉を持たないのだ!)
これを援用すると、テレビやビデオについても包括的に語ることをよりわかりやすく出来ると思う。
記号体系という視点から見ると(一般的な意味での)映画もテレビもビデオもすべて映像と音を用いる混合的な体系であり、「動く映像」である。
更にミトリの別の言葉
映画における意味するもの(le signifiant filmique)は映像でも具体的な事物でもなく、一つの関係(un rapport)である。
下の最後で引用したものと同じく(後期)ウィトゲンシュタインに通じるものがあるのではなかろうか?文脈というか「使用」によってのみその意味がわかる映画とは実はウィトゲンシュタインの言うところの語の意味の定義を一番わかりやすく体現している言語なのではいだろうか?
(だが、私は前期ウィトゲンシュタイン(論理哲学論考)は何度か考察したが、後期(哲学探求)の内容については哲学辞典の知識程度の理解レベルなのであくまでも想像の域を出ない考察である。)
※で、このミトリという人を浅沼圭司『映画のために Ⅰ』で知ったのですが、文献がなかなか見つかりません(『映画理論集成』の中にあった論文一編のみ)。何人か調べましたが、一番私の研究に合っているような気がします。というか、かなり興味深い議論をしているようです。どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、紹介いただけないでしょうか?