スポーツのテレビ中継に関する覚書 その2

友人―サイト「蹴球歳時記」(http://plaza.rakuten.co.jp/saijiki31/)とちょっとしたやり取りをしていながら、そのままほったらかしにしていた。
この前(10月20日)「テレビ野球」だとか「テレビサッカー」だとかいう言い回しをしたが、これは決してネガティブな意味で言っているのではなく、むしろ野球ではなく「テレビ野球」、サッカーではなく「テレビサッカー」らをそれはそれとして積極的に認めて、意識的に楽しもうということである。競技場で実際に見た場合しかそれを見たとはいえないという議論はあまり意味が無いと思う。無論生で見るに越したことは無いし、生で見たことが無いというのは大問題であるが。それは映画の場合でも、スクリーンで見なければ意味が無いという主張に対して、ビデオ鑑賞の後ろめたさもあるが、それでも現実問題として、全ての映画が今すぐスクリーンで見れるわけでもないし、スクリーンで観れないのなら観ないという態度はとりたくない。
テレビの画面ではスポーツの視覚的情報プラス、付属的に音声が抽象され表象されている。この時点で、スポーツの中継、それどころか映像というメディアによって伝えられる全てのものは決して「ありのまま」のものではないことは、前にも言ったが、それは絶対に不可能なことで、送る側がありのままの伝えようとするのは欺瞞でしかないし、現場で生で見ていてもそれは不可能なことである。例えば市川昆が監督した東京オリンピックのドキュメンタリーなどを見ても、それは人間という物体の純粋な動きの美しさが強調され確かに興味深い作品である。が、それが東京オリンピックという大会、現象の全てをありのままに表しているわけではない。監督自身ももちろんそのことを自覚しているであろう。番組製作サイドがありのままに伝えようと思っていたり、映像が透明なメディアであると思っているとしたら、それは欺瞞にほかならない。ありのままに伝えること、さらにある事物をありのままに見ることの不可能性をはっきりと自覚して、その上で番組を「作って」いかなくてはなるまい。