黒沢清『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』日本、1990年 をDVDで

諏訪太郎が本を読んだと嘘をハッタリをかましたとき、大杉蓮が悔しがるのは何故か。大杉蓮の見ている前で諏訪太郎は本を読まなくてはならないし(諏訪が本を読もうとという誘惑に駆られたときにそっと見守っていればよいのに、わざわざ声を掛けるのは、このゲームに決したということをお互いがお互いに認識させねばならないからである)、このゲームがルール上終焉したことを宣言するからである。しかし、次の瞬間には本を読ませようとするだろう。この瞬間このゲームは決して終わらないことが決定する。もはやゲームの続行が主たる目的になっている。監禁状態での力のゲームが最終的に家の者、言語学者のものにまで波及するのは最初から決まっていて、あの田舎道(ゴダールの『決別』ではないかと思ったが、この作品のほうが先だ!)を通った者はこのゲームへの強制的な参加を命ぜられるのだ。だから、最後にばあさんが鍵を締めてしまい彼ら全員を閉じ込めるのは当然のことといえる。その10年後のレポーターや、そのスタッフたちも、その映像は省略されているがもちろんこの道を通っている。ばあさんだけが通ってないのだ。あの娘も一度あの道を往復してしまったのが命取りだった。
この作品で黒沢清ストーリーテラーとしても面白いなと思ったのは、各章の冒頭でのあらすじ説明の部分である。これは一瞬でわかることだが、これ用に別に撮影しているものであり、本編とは人物の位置関係、台詞などが異なっていて、それでいてこの物語の本質を決して損なうどころかより強めている。これはある意味モンタージュである。つまりいくつかのカットを使って語ったことをより少ないカットで語りなおすという作業。ただ間引くのではなく、いくつかの本質的な要素を1つのカットに詰めこんで再び語る。これは面白い。