加藤治代『チーズとうじ虫』日本、2005年 @ポレポレ東中野

何と残酷なことか。
これを見て涙を流している人は、だいたいこの家族の間に流れる日常と生と死、彼女らの暖かい関係、といったようなキーワードで括られるなにかを見出し、なによりもこのミニマルな構図は普遍性を持つので、たいていの人は自分に置き換えて想像することが出来る。その種の想像力を喚起することが出来ると言う時点でかなり豊かな表現であることは間違いないし、実際私もそう思ったのだが、それよりも私はこの映画の、と言うよりは(ドキュメンタリ)映画というものの残酷さに涙が出そうになった。
上映後に監督に質問できる機会があったので質問してみたが、彼女はただ夢中でキャメラを廻していたという。自身にしてみればそうだろう。
例えば、抗癌剤の副作用であろう、髪の毛が抜け落ちる母、それをキャメラを真下に据えブラシを当てるたびにその細い髪の毛がはらりとキャメラの方へ向かって落下してくる。例えば、歯磨きをしている母にクロースアップして行く。これらのショットが撮れたのは、母と娘との愛に裏打ちされた信頼関係によるものであろう。だからおそらく、母も娘もこの撮影を残酷だとは思ってはいないだろう。しかし映像はそういう当事者たちの思いとは関係なくその残酷さを映し出す。
この作品の協力にもクレジットされている佐藤真が、悪人でないとドキュメンタリーは撮れないと言っていたのを思い出す。
母の亡骸をなめて家族の姿を捉えたショットはすさまじい。ものとしての肉体がいやがおうにも画面には重く鎮座していて、ここでも娘であるから、愛があるからこのようなショットが撮れたのだろうかと考え込んでしまった。本物の死体を前にこのような審美的で冷静で残酷なショットが撮れるのは凄まじいことだ。愛の名の下に許される残酷さが漲る。
しかしもう一つ忘れてはならないもう一人の女性、彼女の母の母、娘に先立たれた母、の存在である。撮影の傍ら同時に編集作業も進めていたというその映像を祖母に見せる場面。この祖母の表情からは、生前の娘の姿を愛しく、哀しく見詰める表情だけではなく。何という残酷なことをしてくれたのだという表情を私は半ば捏造して読んでしまった。この映画は監督自身や私たちにではなく、この祖母の為に作らなければならなかったのではないか。
それとは別に、この映画には食事のシーンが多い。前日の歯磨きはともかく、この人間が粘膜を晒し異物をそこに放り込む作業が何度も登場する。しかもこれらのシーンには他のそれと違ってなにか慎み深さのようなものが感じられる。フレームの外からテレビの音声が聞こえ、特別会話をするわけでもなく「おいしい」とかいいながらみんなで食べているショットが、私は好きだ。