新日曜美術館「生きる総てが花である〜いけばな作家・中川幸夫」NHK教育

以前に放送したものの再放送(アンコール)。そのときにチラッと眠気まなこで観て衝撃を受けてもう一度みたいと思っていたのでよかった。
私はいけばなについて全然知らないのだけど(勅使河原宏が草月流の家元だったのは知っていた程度)、中川幸夫氏はまさに花と闘っている。大きな瓶にカーネーションの花を詰め、そして、逆さまにして、紙の上にカーネーションの体液が広がる、「花坊主」まさに花の血である。花びらが取れおしべとめしべだけになったチューリップ。「チューリップ星人」、何個ものカーネーションを絞りながら盛った「魔の山」どれも圧巻である(googleで検索すればいくらでも画像は見れる)。いけばなという枠をどこまでも探求し押し広げていく。全身を使い花の塊を投げつける、叩きつける。花に紅を入れ化粧をさせる血にも見える。
現在80歳を超える彼の生き様にも、深く感銘を受ける。流派に属するのを拒否し、前衛いけばなを志す。展覧会で展示を拒否されたこともあったという。流派に属さないというのは展示の機会がないということであり、絵画などと違い、いけばなはその場限りで死んでしまうので作品を売ることも出来ない、かれは小さないけばな教室の収入だけで、6畳風呂無しのアパートに数十年間すんでいた。極貧である。そして収入のほとんどは、いけるための花を買う金に変わっていく。それでもなおあのような過激で面白く、感動的ないけばなを続けていく表現者としての姿勢には頭を下げるしかない。諸作品と本質的には関係ないし、むしろそれは否定されるべき説話論的な見方なのだが、どうしても、中川の脊椎カリエスを病んで曲がってしまった背中、「せむし」の姿に聖痕的なものを感じてしまう。が、これはやはり作品とは別個で考えなくてはなるまい。
番組のクライマックスになった、「天空散華」。空から、数十万個のチューリップの花びらが舞い落ちその下で、舞踏家の大野一雄(95歳!)が舞う。美しいという言葉よりは壮絶という言葉が良く似合う。いけばなとは、ただ花をいけて美しいというだけのものではなくて、そういう「場」そのものを構築していくこと、良く考えれば茶道、華道、そもそもはそういう「道」ではなかったか、利休が志したものの一つの先端(ターミナル)がここにある。
近年、弟の住む故郷の家に住み、発表するでもない作品を毎日近所から草花を摘んできてはいけている。彼はこれを「いけ流し」とよんでいる。そのいけ流しがまた面白くて、生活の中に藝術が息づいている瞬間を見た。部屋の机の上に紙を破いた花器を作り、そこにつんできた草花をいけ流す。テーブルの上にも下にも自由にいけ流す。作品の空間と生活空間の境が曖昧になっていく。これほど豊かな暮らしをしている人間を私は知らない。
テレビのモニターを通してとはいえ、彼の作品を観ることは凄く刺激的で、ともすれば保守的で、むしろそれが良い、美点だと考えがちな伝統的ないけばなの世界にもやはり前衛は存在し、それは私達に語りかけてくる。内容と形式という2項対立を超えて、ある内容にはある形式が絶対的、必然的に要求されていて、まさに形式こそが内容そのものになる瞬間。それこそが前衛の前衛たる所以であり、面白さ、心に突き刺さる衝撃なのである。
やはり、前衛は面白くなくてはならない。