2006-01-01から1年間の記事一覧

サム・ダン/スコット・マクフェイデン/ジェシカ・ジェイ・ワイズ『メタル ヘッドバンカーズ・ジャーニー』カナダ、2005年 @渋谷シネアミューズ

どうも最近酒の抜けが悪くて(ほぼ毎日飲んでいる)、今朝もだるかったので書けなかった… というのはおいといて本題。 まぁ、観る前から予想はついていたのだけど、メタル好きのためのメタルドキュメンタリーといって差し支えなかろう。映画、映像、あるいは…

クリント・イーストウッド『スペースカウボーイ』アメリカ、2000年 をビデオで

いやぁ、素晴らしい。 この作品、SFではない。「宇宙モノ」ではあるが近未来ではなく"PRESENT DAY"の話である。もちろんフィクションではあるのだが、(映画的な)現代の物語である点において、SFが意図するものとは根本的に異なる(SFの偉大さと、映画にお…

ダリオ・アルジェント『フェノミナ』イタリア、1984年 をビデオで

虫や死体などのあからさまに嫌悪を催させようとしているような要素よりも、毎度アルジェントの映画にはもっとぞくぞくさせる細部の描写。すべてを見せないこと、あるいは一部をよく見せること、このカッティングがいいのだ。槍を組上げる細部を捉えたショッ…

アルノー・デプレシャン『そして僕は恋をする』フランス、1996年 をビデオで

傑作『キングス&クイーン』でもそうなのだけど、デプレシャンは私にとって感想・批評を書きづらい作家である。何を軸にして書いて良いか分からなくなるし、これだけははずせないシーン、カットを数個かチョイスするのも非常に難しい(そういう意味で『エス…

デイヴィッド・クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』アメリカ、2005年 @新文芸坐

クローネンバーグは少年時代から見ていた作家の一人で、「好き」な監督の一人なのだが、「クリーチャー」や「残酷描写」以外で映像的に彼の指紋をなかなか自分の中で見出せない監督だな、という印象をずっと持っていて、今回も途中までは暴力シーンでしこた…

ポール・ハギス『クラッシュ』アメリカ、2004年 @新文芸坐

非常にウェルメイドな作品というか、ホンは良く練られていて、悪くない作品だとは思うのだが、なにかが足りな、と常に思いながら観てしまった。「社会派」だろうし「語り」の妙も見せていて、なんというかどこからも文句が出ないような感じなのだが。 このよ…

小津安二郎『浮草』日本、1959年 をビデオで

いつもの厚田雄春ではなく宮川一夫が撮影監督を務めているこの作品。キャメラマンが異なることがこれほどまでにフィルムを違うものにするということを改めて実感させられた。 ファーストカットからして明らかに違う。浜から捉えた灯台、画面の傍らには褐色の…

ロバート・アルドリッチ『北国の帝王』アメリカ、1973年 をビデオで

汽車のような巨大な塊が走るという運動はまさに奇跡そのものではないか。線の上を愚直に疾走する塊を男たちはそれに緩急をつけたり時には力ずくでて停止させたりしながらも、それは決してその走行を諦めはしないだろう。彼らはもう既にそれに乗り込んでいる…

小津安二郎『彼岸花』日本、1958年 をビデオで

小津のようなドラマの場合、カッティングの動機となるものはアクションだけではなく会話・ダイアローグ――アクションとしての発話、が大きな位置を占めることは間違いないだろう。奇遇にも先日観た『小早川家の秋』に続いて関西弁で喋る人物が大々的に登場す…

鈴木清順『けんかえれじい』日本、1966年 をビデオで

清順の作品ということで、どうも「変わったことをしている」部分ばかりに注目しようとしてしまう。会津若松に舞台が移ってからの序盤、「あひる」なる先生を生徒たちがみんなしてからかう場面とか。あと、「マンモス先生」なる先生とのやり取りで教室を出る…

本多猪四郎『ゴジラ』日本、1954年 をビデオで

冒頭の一連の漁船の連続遭難。怪しく光水面。燃盛る漁船。この「怪しさ」というのはどれだけクオリティを上げてもVFXでは到達できない種類の生々しさである(無論VFXでしか不可能な種類の「怪しさ」もある)。この種の特撮を観るといつもこの種の生々しさに…

小津安二郎『小早川家の秋』日本、1956年 をビデオで

確かに異色作というか、奇妙な作品である。松竹ではなく、東宝に招かれて撮った作品だからとか言う単純な理由では括れないのではないだろうか。 突然無性に小津のカラー作品が観たくなって、デッキにカセットを突っ込んだのだが、やはり小津のカラー作品は生…

成瀬巳喜男『妻』日本、1953年 をビデオで

成瀬の映画で、私がグッときてしまうのは林芙美子原作のものが多いので、林芙美子による物語が良いということなのではないかと思ってしまうが、やはりそうではないだろう。映画表現として成瀬がフィルムに刻印しているものが確かに素晴らしいのである。 成瀬…

押井守『立喰師列伝』日本、2006年 @吉祥寺バウスシアター

立喰師の映画、食についての映画と聞くと押井守の作品を観つづけているものにとっては、とうとう来たか!という感じなのだが、そういうテーマを期待してみると、例によって肩透かしを食うだろう。何しろここでテーマになっているのは「食べる」という極めて…

物語という癌細胞

先日ジャームッシュの映画について考えているとき、物語を「癌細胞」であると比喩したが、この比喩はうまく使えそうだ。一度発生してしまったからには容易には消し去ることは出来ない。二つのショットを繋げるだけでそこにはもう物語は生まれてしまう。巧み…

成瀬巳喜男『夫婦』日本、1953年 をビデオで

三國連太郎の不穏な存在。あの顔つきと声と体がこのフィルム自体に妙な傷を残す。

ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』フランス、1950年 をビデオで

この「純粋過ぎる」司祭の苦悩と孤独と呼応するかのようなフィルム。抑制された演出とドラマによって画面は暗闇に包まれるだろう。この禁欲的な映画を人間の顔が、恐ろしいほどまでに豊かで官能的なものにしている。少女たちの顔はエロティックでその視線は…

リハビリテーション

やっと部屋でも映画を見出したが、テレビはちっさいし、モノラルだし、カーテンもないし、劣悪な条件である。さらには、半年ほどのブランクのせいか、キーが思うように進まない。もっともっと頭を使って日々過ごさないと。今日、『ナイト〜』をみて余り言葉…

相米慎二『お引越し』日本、1993年 をビデオで

相米慎二の作品を観て思うのは、語れないこと、言葉では言い表せないことがあるから映画は存在するのだ、という強い確信である。相米の作品ではしばしば「子供」を中心とした「物語」が繰り広げられているように一見すると見えるかもしれないが、じつは「大…

ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』アメリカ、1991年 をビデオで

映画から物語という「癌細胞」を取り除いてやること。ジャームッシュが近作の『コーヒー&シガレット』でも分かるように、オムニバス形式をとるのは必然であろう。話芸というか小噺というか。いかに一個のシチュエーション、一人一人のキャラクターから「映…

ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』アメリカ、2005年 @新宿武蔵野館

時間と空間を示すこと。物語や意匠ではなく、さらにそれらを乗せるメディアとしての「映像でもなく、そのもうひとつむこう側の、むき出しのなにかを映画は示すことが出来る(ここで言う「なにか」とは映像というシニフィアンによって表象されたシニフィエで…

久方の

観た映画についてここに書くのも随分と久しぶりだ。実は先月ノートを購入して日記とも覚書とも言えぬものを不定期で書き始めた。こことmixiとノート、三層構造の私。どれが本当の自分かとか、野暮なことは言わないが、今のところはうまく楽しく使い分けてい…

富士フィルム、シングル-8販売および現像終了のこと

吉田喜重監督が、映画100年の折に、生誕した日があるからには死ぬ日もある、それが宿命づけられている、という旨の発言をしていたが、その戦慄すべき発言を思い起こさずにはいられない出来事が起こった、起ころうとしている。 情けなくも後輩の日記で知った…

文明開花

今日漸く我が家のPCにネットが(に)つながった。これからはちょくちょくしょうもないことも書けるだろう。

神代辰巳『一条さゆり 濡れた欲情』日本、1972年 @シネマアートン下北沢

神代辰巳『濡れた唇』日本、1972年 @シネマアートン下北沢

神代辰巳『かぶりつき人生』日本、1968年 @シネマアートン下北沢

本月本日をもってめでたく高円寺に引っ越し申し候

最近ここの更新をまったくしていなかったし、映画もたまにしか観れず、感想もろくに書かないという体たらくぶりだったが、実は今日引越しを敢行した。場所は高円寺。 早く生活を軌道に乗せたいものだ。復活は今しばし待ってください。 数ヶ月はその日暮しが…

ガス・ヴァン・サント『ラストデイズ』2004年、アメリカ @シネマライズ

ウィルソン・ウィップ『SPL/狼よ静かに死ね』香港、2005年 @新宿オスカー劇場

サモ・ハン